2010年07月29日

「マニフェスト」から「アジェンダ」へ?

◆「ごまめのつぶやき」は地域ミニコミ誌。もう20年ぐらいに
 なる。メンバーは6名。今は私が編集長。
 年に3回の発行。その時々、6人がそれぞれの思いを文章に
 している。政治評論もあれば、それぞれの分野の詳しい情報も
 あり、ほっとする野菜栽培やネコの話、エッセイも。
 No56の印刷発送作業日を前に、私の原稿をここに紹介します。

◆「マニフェスト」から「アジェンダ」へ?

7月11日、参議院選挙が行われた。選挙戦は、日本チームの
決勝リーグ進出で列島が沸きに沸いた南アでのワールドカップ
期間と重なった。早朝からテレビの前で一喜一憂を繰り返して
きた人びとは最後に笑うことができただろうか? 
 いえ、スペインが優勝して嬉しかったとか、オランダが負けて
悔しかったとかいう話ではない。タコのパウルくん(ドイツ)の占
いがすごかったねという話でもない。選挙結果の報道に、テレビ
の前でニッコリ笑顔を見せた人がどれほどいただろうかという話。
 与野党いずれの政党に投票した人も勝利を実感できず、ただ
ただ先行きに不安感を募らせただけ、そう、ため息をついただけ
だったのではなかったか。

先の衆院選から一年もたたない間に、民主党の支持率がなぜ
ここまで落ちたのか。その理由を語らせれば国民はたぶん一億
総政治評論家だ。理由はあまりにもはっきりしていた。
一方で自民党にだけは政権を戻したくないという人たちの存在
は揺るぎなく、今回注目を集めたのがみんなの党だった。「増税
の前にやることがあるだろう」「我々のアジェンダは―」の語りが
有権者にとって新鮮で魅力的だったようだ。この国の市民は新し
い言葉に弱い。これで政治はマニフェストからアジェンダに?

マニフェストに罪はない。それまでの「政治公約」は政党がいつでも
責任逃れできる抽象的なものだった。それを民主党は去年の衆院
選で、政策の数値目標、実施期限、財源、方法などを明記して「マニ
フェスト(政治公約)」と表現し有権者に示したのだった。目標が達成
できなかったら当然その理由を説明しなければならない。
 有権者は「マニフェスト」を掲げたことで、民主党の責任感、覚悟の
ほどを見て取った。その結果政権交代が実現した。「マニフェスト」
は地方選挙から使われ始めたもので、決して民主党の専売特許では
ない。私たちは民主的な政治が行われるためにこの「マニフェスト」を
手放してはならない。

他方「アジェンダ」は?アジェンダとは単に、協議事項、議題、予定表、
行動計画を意味する言葉だ。みんなの党はこれを「政策課題」の意味
で使ったようだが、この言葉からは政党の責任感を見て取ることは
できない。どんな社会をつくろうとしているかを把握することもできない。

有権者は新しい言葉に惑わされることなく、政党の本質を見極める
ことが大事。どこかで次の選挙の受け狙い・流行り言葉を考えている
政党があるかもしれない。  

(山中悦子)

2010年07月04日

資料整理

◆来週8日、ちょっとした集まりで話をすることになっている。
 3回の連続講座の2回目でテーマは「貧困の原因」。前回は
 「貧困とは」をワークショップ形式皆で確認した。
 貧困の原因には自然環境(旱魃、台風、地震など)もあれば、
 人為的なもの(戦争、政治腐敗、債務など)もある。
 時間をかけて話すことになるのはたぶん「債務問題」。参加者
 にとってはじめて聞く話になるだろう。
 日本でのフツーの暮らしの中で途上国の債務問題は遠い話。

◆理解をすすめてもらうためにあの資料がいいと思い出したの
 は、フィリピンでつくられた「債務の話」の本(日本語版)。
 フィリピンへの日本の援助がマルコスファミリーを豊かにした
 だけものであったことはその後明らかになったのだが、その
 時の援助「円借款」は多額の借金返済となって未だに国民に
 大きな負担を強いている。
 「債務の話」はこうした現状をわかりやすく伝えるために市民
 団体が作成した小学生を読み手にしたような本だった。

◆・・・ところがみつからない。たぶんあの時、捨てたのだ。
 長年活動していると、資料はたまる一方。特に「ジュビリー2000
 債務帳消し国際キャンペーン」に取り組んだ時には勉強、勉強
 で資料の山だった。
 あの時とはもう3、4年前のこと。もう使うこともないだろうと、ある
 日思いきって大量処分した。

◆この2、3日も書類整理に追われた。
 私みたいなものの机の周辺にも資料はすぐにあふれる。いつの
 頃からか、肝心な書類がすぐに見つからなくなった。
 私は手に入れた資料を再び開いて何かを書いたり、人に話した
 りする方だから、資料は長めにとって置く。
 で、時々大掛かりな整理に追われる。

◆「債務の話」は結局見つからなかった。
 貴重なものだったが、持ち物をできるだけ処分してすっきり暮ら
 すことが大事と思えたあの日に「思い切って」処分したのだろう。
 だから今回のようなことがあっても悔いはない。 
 頭に残っていることで話すしかない。それが出来なくなったら話さな
 ければいい。
 それにしてもあの本を捨てたとは・・・。でもそれを言ったら永久に
 資料整理はできない。これでいい、これでいい。
 

2010年06月30日

藍ちゃん

◆日本中がワールドカップの話題一色の中、私は一人宮里藍の
  ゴルフに感動していた。
  今季すでに4勝の宮里は、6月24日、世界ランク1位、獲得
  賞金額1位でメジャー大会(USLPGAツアー)を迎えた。
  結果は3位に終わり、世界ランク1位の座をクリスティ・カー
  (アメリカ)に奪われたのだが、彼女は本当にすごかった。

◆中継があったわけではなく、毎日の結果は翌朝のネットで
  知る4日間だった。初日97位。「もうだめだ~。」2日目、
  48位。「すごい!」 3日目、24位。「うそー、24位?」。
  そして最終日、宮里藍、3位。「3位?藍ちゃんが?3位?」
  3日目2位で終えたのは宮里美香だった。3位は宮里美香
  の間違いではと思って当然。

◆途中腰に違和感があったという宮里藍のなんというがんばり。
  私はゴルフをしないけれど、テレビ中継はよく見る。ゴルフは
  4日間の長丁場。その間のコースコンディションは全員に
  不平等。スタート時間が早朝の人もいれば午後になる人も。
  時間が違えば自然条件も変わってくる。途中から雨の中での
  プレーになったり、芝の状態にも違いがでてくる。
  惜しいプレーが続けば投げやりになっても不思議でない。結果
  はすべての条件に加えて自分自身をコントロールできて初めて
  出せるもの。

◆出場した日本選手は4人。97位は4人中最下位スタートだった。
  3日目終了時点で2位だった宮里美香は結局13位に終わった。
  横峯さくらも最終日は前日より順位を落として25位。有村智恵
  も同じく順位を落として34位。(上田桃子は予選落ち)
  宮里藍がダテにアメリカで苦労していたわけではないことの証明
  といえるだろう。
  すごいとしか言いようがない。

◆ワールドカップ、日本のベスト8進出ならず。善戦。ただ今の時刻、
 午前・・・、さあ、早く寝なくては。


  

2010年06月19日

モデル

咲良2010.4. 054.jpg
◆マゴサクカメラマンのモデルになった私です。
 いつもは写真に写りたくないと逃げ回っているのですが、
 この時ばかりはイヤと言えずに、写されました。
 
 

マゴサク日記No7

咲良2010.4. 063.jpg
◆マゴのサクラですが、大きくなりました。2歳8ヶ月です。よく
 しゃべります。大人との会話はほとんど成り立ちます。どこへ
 行った、誰と会った、何をした・・との報告も正確です。「移動」
 や「必要」などという言葉も使います。
 幼児だと思うのは家のなかで走り回ること。ゆっくり歩くことが
 ありません。回っていないと倒れるコマのようです。
 運動は好きそうで活発です。
 食事もトイレもだいぶ上手になりました。外出先では結構歩く
 ようにもなりました。
 
◆最近サクラはカメラマンデビューを果たしました。写されるより
 写す方が好きみたいです。カメラを向けると反対にすぐモデル
 にされてしまいます。構える間もなくシャッターを押します。
 でも不思議に必ず撮れています。
 先日は私の家に来て、机の前に一人で座って、30分近く絵や
 字(文字にはなっていないもの)を書き続けていました。
 こんな小さな子にも集中力、持続力があるのを知って驚きました。

◆順調に成長していることに感謝です。 


 

2010年06月14日

西へ東へ

◆いつのまにかブログから縁遠い毎日になっていました。
 思うこといろいろ。言いたいこといろいろ。旅報告いろいろだったの
ですが。
 で、いささか旧聞に存じますが・・・で再開します。

◆3月末、フィリピンから戻って2週間ほどのち、ODA改革ネット全国
運営会議に出席のため、岐阜県最南端、愛知県、三重県の県境
に位置する海津を訪れました。 会議&宿泊の場所は「海津温泉」。
鄙びた温泉宿を想像していましたが到着してびっくり。町の人たち
が楽しむ大きな「温泉施設」でした。
 それでも温泉は本物。慌しく楽しみ、まじめに会議。ODA改革ネット
の再建なるか?注目度が下がってきたことは否めなくとも、ODAの
役割は終わったわけではありません。九州、関西、中部、東京の
4地域の連携を強みに活動強化を確認しました。

◆せっかくここまで来たのだからと、近鉄に乗り三重県を横断して
奈良へ。橿原神宮前のホテルでいつもの(社宅時代からの)友人
たちと合流。
  高校の修学旅行以来の飛鳥路散策。四分咲きの桜と菜の花に
囲まれた
  石舞台で時ならぬ吹雪に見舞われながらも古代を満喫。高松塚
古墳、飛鳥寺、橘寺。満足。いつの日にか再びの奈良。
  あとは唐招提寺とせんとくんの平城宮跡。一大イベント開催目前
の静かな都跡を歩きました。
日本美術を学んだ大学時代にゆっくり滞在した奈良。あのころ
何もなくただただ広いだけだった都跡に大極殿が再建されていま
  した。感無量。

◆大谷川(ダイヤ川)の渓流とあふれる若葉、咲き乱れる山つつじ。
東照宮、小杉法あん美術館。5月半ば、大学時代の同級生、女性
のみ12人が日光に集いました。神戸から、京都から、秋田から、
 佐野から、土浦から、東京から、横浜から。
 日本最古の洋風ホテルといわれる金谷ホテルに泊まりました。
 仕事や活動の話は、なし、家族の話も、なし。目の前の景色の話を
 して、目の前の食事の話をして笑いました。学生時代一番仲良し
 だった友だちと同室で泊まって 旧姓で呼び合って、時の流れを遡り
 ました。非日常の時空に感謝。次回はいつ、どこで? 同じメンバー
 が勢ぞろいできますように。
 ※中学の修学旅行は日光でした。乗り物に弱い私は不参加。登校
   して勉強していました。

◆箱根、海津(岐阜)、そして茂庭。有名な秋保温泉に近い茂庭行き
 は今年3ヶ所目の温泉めぐりとなりました。6月12~13日、仙台市
 戦災復興館で開催された「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」
 のワークショップに参加したところ、思いがけず温泉宿泊プレゼント
 がついていたのです。
 多文化理解の講義のために、今世界や日本が移民問題にどう向き
 合っているのか、現場の状況を把握したいと思ったのが参加の動機。
 「全国ネットワーク」、「連帯」の文字が示す通り、北海道を除くすべて
 の地域から移住労働者とその家族をサポートする人、団体、政策提
 言をする人が集まりました。約130名。韓国からの参加者や日系
 ブラジル人の女性たちとはすっかりうちとけて話ができました。
 私には研究者の集まりより実践者の集まりの方が居心地がいい。
 西へ東へ。運動仲間との時間を過ごすようになって25年。そういえ
 ばこの種の初めての旅も仙台でした。たしか、「合成洗剤追放全国
 大会」だったような。

◆これまで訪問したのは、沖縄、佐世保、湯布院、岩国・広島、福生
 (横田)。そして、名古屋、高槻、京都、山形。
 東へ西へ。西へ東へ。次はどこになるのでしょうか。


2010年03月25日

フィリピンへ行ってきました

アキノ・ロハス.jpg
次期大統領・副大統領は間違いなし?
アキノ大統領候補&ロハス副大統領候補のボランティアセンターにて。
Gee と Muffet。Geeのバッグは私のおみやげ。横浜元町のKブランド。

◆1年半ぶりにフィリピンへ行ってきました。
 友人の調査(「フィリピンにおける直接民主主義について」)の
 現地コーディネートを私が担当しました。
 フィリピン人の友人Geeとその友人のMuffetが協力してくれたことも
 あって、調査目的が充分果たせるスケジュールが組めました。
 私が滞在した5日間はマニラ首都圏ケソン市内でインタビュー。
 知り合いのフィリピン大学教授、NGOリーダー、POリーダーに
 加えて、市議、副市長政策秘書、バランガイキャプテンなどに
 次々に面会。
 国民投票、住民投票は行われはするが、それで結果が得られた
 という成功例となると・・・、そう簡単にはみつからない。
 私が帰国したあと友人はヌエバ・エシハで5日間。地方から国政が
 どう見えているのかが発見できるに違いない。

◆ケソン市内。
 PRRMのオフィスに近いという理由で、26F建てのホテルの
 25Fに泊まりました。窓から見た隣の部屋は エーッ???
 日本では考えられない。この角部屋、上から下まで未完成。
 ブロックがむき出しのまま。それで開業しちゃうのだからスゴイ。
 やっぱり、ここは、フィリピン!
 マニラ湾も、そこに浮かぶ船も見えました。マカティの高層ビル群も
 見えました。北東方面には連なる山並みが間近に迫って見えました。
 で、ケソンは発展したのでしょうか。
 来れば必ず訪問するバランガイ・タルヨン、バランガイ・サントドミンゴ。
 川沿いのスラムエリア。今回もいままでと変わらない人々の暮らしに
 出会いました。

◆選挙が近い。
 親が元大統領、祖父が元大統領の大統領・副大統領候補者の勝利が
 予想されています。
 ケソン市の市長候補者は現副市長です。でも副市長候補は現市長の
 お嬢様です。市内至る所に、市長とお嬢様のツーショット写真が 溢れて
 いました。お嬢様は超美人です。候補者はみんな二世、三世か映画や
 テレビの人です。ケソンの市長候補者(現副市長)は元コメディアンだった
 そうです。
 大統領・副大統領、上院議員・下院議員、パーティーリスト(政党リスト)、
 市長・副市長、市議、バランガイ・キャプテン、バランガイ議員のすべて
 を一挙に選びます。それも1枚の投票用紙で投票するのです。
 初導入される電子投票システムについて、パワポでレクチュアを受けました。
 が、殺人も、お金のばら撒きも、不正投票、不正開票もこの制度でブロック
 できるとは思いません。
 制度の国民への周知も、運用の正確さもあまり期待できないと思いました。
 
◆かつてきわめて政治的だったNGOのリーダーはすべての大統領候補者に
 期待していません。政治はもういいと言っていました。
 個別具体な課題解決のためにがんばるだけとのこと。
 気候変動、平和、原発、有機農業、などなど。
 気持ちはわかりますが・・・、かける言葉を持ちませんでした。

 
 
 

2010年01月15日

新年スタート

富士山.jpg

◆新年が無事、スタート。
昨夏の義父の死に伴い、喪中で迎えたお正月は夫と二人、
穏やかで、静かだった。
行動開始は3日。東京箱根間駅伝の復路を東神奈川の沿道
での応援。
そして、5日と6日は箱根。旅日和に恵まれ、外を歩くのも楽
だった。
訪ねたのはポーラ美術館(ボナール展)、ガラスの森美術館、
マイセン庭園美術館、そして、駅伝ミュージアム。
加えて、芦ノ湖、富士山に、ホテル、温泉、ご馳走。
新年早々身にも心にも贅沢三昧。

◆駅伝ミュージアムは、箱根駅伝の往路ゴール&復路スタート
地点の隣。小さなミュージアムは駅伝の歴史勉強部屋。
実は私の駅伝応援歴はすごいかもしれない。歴史勉強部屋で
そのことに気がついた。
往路3区の茅ヶ崎・湘南遊歩道路近くで育った私はその昔から
父や兄たちと応援していた。指折り数えてざっと50年前から?
テレビで見る沿道の松の木の高さがそれを証明。
あの頃の松ノ木は小学生の私の身の丈ほどだったもの。
私にとって箱根駅伝は父や兄との思い出、郷愁そのもの。

◆箱根の帰路は山下りコースの追体験コース。
この距離、この坂の駆け上り、駆け下りは信じられないと、
途中何度声に出して驚嘆したことか。すべての選手に脱帽。

◆私は諦めがいい、というか、粘り強くない。
身体にだいぶ疲れが見えてきた昨今、活動にも意欲喪失
気味。
けれど新年の箱根路はやんわり私の背中を押した。
もう少しだけ、やることをやろうか・・・と小さく決意。
明日は、たくさんの外国籍の子どもたちが通う横浜の小学校
を訪問。またまた「現実」を勉強する。私の行動する一歩。

◆あ、そうそう、今回の箱根は夫との二人旅。
同年齢と思しき夫婦二人連れにたくさん出会って、夫は初めて
世間はそういうものだと知ったようだ。この世間並みが我が家
でいつまで続くかはわからない。
春が来て、夫がまた忙しくなれば、私は私でまた忙しくなるでしょう。

2009年12月31日

今年から来年へ

白川郷09 093.jpg
◆年内に予定していた仕事からも、大掃除からも、家族からもフリーになって、年の瀬に友人と二人で奥飛騨&白川郷へ旅をしました。
雪に埋もれた世界遺産の村で、築270年の合掌造りの家に泊まり、囲炉裏の火で暖められた部屋で、朴葉味噌で飛騨牛を堪能。
今年はちょっと元気が出ない一年でしたが、これで帳消し。

◆クリスマスに素敵な文字が入ったカードを受け取りました。これからの私の座右の銘にします。
 Women don't grow older, they just discover themselves.
 


2009年11月06日

THIS IS IT

◆「THIS IS IT」を見た。映画が公開されると知ってぜひ見たいと思っていた。2週間限定上映ということで無理かもしれないと思ったのだが、念願叶って幸せ。
レディスデイと重なり、9割方女性で満員の劇場内に夫と並んで見たのも、いつの日かいい思い出になるに違いない。
五日前には、この夏我が家にホームステイしていた韓国の女子大生マリアさんから「見ました。感動しました。悦子さんも見てください」とのメールも届いていた。マイケルの死は彼女のホームステイ中の出来事。ニュースを聞いた私たちは、マイケルのCDを聴きながら彼の死を悼んだ。

◆私にとって忘れられない歌はHeal The World♪
1993年、草の根援助運動を始めたばかりの頃、この活動に本気で取り組もうと決心した私が決行したのが100日間のフィリピン滞在。
マニラ首都圏ケソン市でフィリピン農村再建運動(PRRM)の本部オフィスに通い、PRRMのフィールド・7州の25の村々を訪ね過ごしたあの日々、いつもどこからか聴こえてきて私を励ましてくれた暖かい歌声、それがHeal The World♪だった。
あれから、Heal The World♪は、私を1993年のあの日あの場所に連れていってくれる歌となった。

◆自分の死が迫りくることも知らず、ロンドン公演の成功を信じて何百時間もリハーサルを重ねていたMJ。映画はそのリハーサルでの彼の真剣さと才能の豊かさを200%以上伝えるものだった。あの細い体と精神で、極限まで美しく、エネルギッシュに彼の世界を表現していた。
平和、環境、人権、平等、愛、家族、友だち、子ども。世界中の人々をハッピーにしたいと命をかけて歌っていたことがよくわかる。
ファンは非日常、夢の世界を望んでいる。それに応えなければならないと言っていたMJにとって、ロンドン公演は本当に成功させたかったものに違いない。
またリハーサルでは、いっしょにステージをつくる人たち、ミュージシャン、ダンサー、音響さん、照明さん、そしてクリエイティブ・ディレクターらから、いかに大きな敬意を集めていたかがわかる。そこでは彼は確かに共同クリエイティブ・ディレクターであった。文字通りの「チームMJ」が存在した。
一ファンでさえ受け入れられない彼の死を、「チームMJ」の面々はどう受け止め、乗り切っていくのだろう。

◆スクリーンでマイケルは永遠に踊り続け、歌い続ける。映画館にはこの映画を見た人の記念になるものは何も用意されていなかった。
映画(ステージ・作品)の記憶だけがすべてなのだ。