PRRMの歴史

                            草の根援助運動 小野行雄
 

第1期PRRM前半(1952年〜72年) 

 フィリピン農村再建運動(Philippine Rural Reconstruction Movement - PRRM)は、その成り立ちにおいて、中国における農村開発運動に深い関係がある 。
 PRRM創立の理論家であるジェームズ・イェン博士(Dr. Yen Yang Chu a.k.a. James Yen)は、1893年、中国四川省に生まれた。父祖4代にわたり教育者という家系で、父親は地元に私立学校を開設、イェンもそこで学んだ。その後ミッション系の学校へ進学、さらに成都のアメリカンスクールへと進学し、大学は香港のカレッジに行っている。そこからアメリカ・オハイオのカレッジに留学、エール大学に移り、1918年に卒業した。
 卒業後彼はYMCAによりフランスに派遣され、当時20万人いた中国人労働者(クーリー)たちの生活向上のために働いた。仕事は全般的な生活改善だったが、クーリーの一人の手紙の代書をしたことがきっかけで識字教育の重要さを認識、識字教育活動を開始した。

 1921年中国に帰国後は漢字改革 を含む大規模な識字教育運動「中国大衆教育運動(Chinese Mass Education Movement)」を開始、1937年の日本軍の侵攻まで続けた。この頃には全土で2700万人がイェン方式の識字を学んでいたという 。この運動は識字が中心ではあったが、農村再建に関わるさまざまなプログラムも同時に含まれていた。イェンは識字によって人々に新しいメンタリティをつくり、それによって人々が自ら生活を改善していく、という方向性を想定していた。 

 第二次世界大戦の終結後、イェンは、アメリカ政府による蒋介石支援の一環であった農村再建共同委員会(Joint Commission on Rural Reconstruction - JCRR)の設立に参加、1949年共産党政権の樹立と共に台湾に移住し、JCRRの活動を続けた。さらにイェンは、1951年、ニューヨークに本部を置く国際大衆教育運動(International Movement for Mass Education - IMEM)の創設にも関わって、アジア各地を視察した。
 イェンがフィリピンを訪れたのはその一環である。1952年イェンはマニラ周辺の大学を中心に講演を行い、都市を離れて農村で働くことを訴えた。この訴えは若者たちの熱狂的な歓迎に迎えられ、3000名がボランティアに志願、そのうち200名が試験的なプロジェクトのボランティアとして実際に働くことになった。
このボランティアのうち特に熱心だった24名を中心として、1952年7月、フィリピン農村再建運動 (PRRM)が発足することになった。
 当時は共産党に率いられた人民解放軍フク団(Hukbong Mapagpalaya ng Bayan) が農村部で盛んに活動を行っていた時期で、フィリピン政府は、PRRMを喜んでパートナーに迎え入れた。フク団が反封建制・反帝国主義を旨とする革命闘争路線をしいていたのに対し、PRRMは平和的な農村開発を目指していたからである 。設立準備段階から、当時のキリノ大統領は、PRRMの初代代表に就任するコンラッド・ベニテスに対して「政府のすべての機関は全面的に支援する」との手紙を送っている。翌年大統領に選出されるラモン・マグサイサイ国防長官もまた、各地の大学卒業者にPRRMでのボランティアを説いた。マグサイサイは「フク・ファイター」との異名をとった行動派政治家で 、彼にとって農村におけるフク団への対抗勢力としてのPRRMが魅力的に映ったことは想像に難くない。

 こうして政府の強力な支援を受けたPRRMは、設立当初の理事9人中6人に政治家と行政の高官を迎えている。外部からはほとんど政府組織そのものと見えたであろう。このことは第1期PRRMの大きな特徴となっている。
PRRMは1953年ヌエバエシハ州のある村でコミュニティクレジット組合(Community Credit Union)をつくったのを皮切りに、各地でプロジェクトをスタート、同時にボランティア開発ワーカー たちに対してトレーニングを行った。トレーニングはマニラで行われ、イェン自身が教師を務めた。54年にはこのトレーニングを終了した大卒者たちが開発ワーカーとして各地に入って、プロジェクトは本格実施に移った。その後もトレーニングは順調に推移し、1958年から61年の3年間、毎年平均56人がトレーニングを受けた。ただし、その全部がワーカーとなったわけではない。初年度は無給で、二年目からもごくわずかの給与しか出ないというのが実情であったからだ。

 1960年にはPRRMでの経験を国際的なレベルで広げることを目指してカビテ州シランに国際農村再建研究所(International Institute for Rural Reconstruction - IIRR)を設立、多くの開発ワーカーがここでトレーニングを受けることとなった。
60年代に入ってPRRMはさらに拡大し、組織としてもしっかりしたものとなった。本部スタッフはすでにボランティア集団ではなく専門家集団となっており、67年後期から68年にかけて代表を務めたフラビエの回想によれば 、67年前期のPRRMの本部スタッフは、3分の1の給与でシェル石油役員から転身したフェリシアノ代表をはじめとして、大学教授や国連アドバイザーなどを辞めてきた専門家たちで占められていた。

 1968年にはヌエバエシハに本部を設立 、70年にはルソンからミンダナオまでの13州で活動している。この頃が第一期の活動のピークで、PRRMは各地で協同組合やクレジット組合の設立を支援、農業その他のトレーニングなどを行った。1970年の記録では、1年間に17,834人の農民および1,614人の農民以外の人々に、稲作、小規模工業、協同組合、自治などに関するトレーニングを行っている。
 財政的にも、当初の困窮状態から次第に余裕が出てきた。設立当初から50年代末までは、PRRMは前述の国際大衆教育運動(IMEM)にその資金を頼っていた。61年の調査では、PRRMの収入のうち4分の3がIMEM、残りが民間の寄付金である。当時資金は常に不足していて、ワーカーたちはほとんど無給ボランティアに近い状態で働いていた。しかしフィリピン経済が好調となった60年代からは、社会変革及び農地改革の必要性が叫ばれ、企業からの援助が相次いだ。
当時の大きなドナーのひとつは代表まで出したシェル石油で、資金だけでなく人的にも支援を行い、理事や役員には同社のメンバーが名を連ねていた。ワーカーたちにもそれなりの収入は確保され、プロジェクト遂行は安定して行われた。また、政府からの資金も増えて、PRRMは企業の社会貢献と政府の地方自治および保健衛生の下請け機関としての役割を果たすようになっていた。
この時期のPRRMとそのプロジェクトについて、Clarkeは次のような問題点を指摘している。

1) 村が支援に頼るようになっていた
2) プロジェクト重視のあまり、プロジェクトをやることが成功と見なされるようになった
3) プロジェクトが個人と家族の利益重視になっており、みんなで村全体のことを進めることが少なくなった
4) 給与、交通費など運営費が全体の20%と高くなっていた
5) プログラムが固定化されどこでも同じように実施されていたため、受益者がPRRMに共感的になりにくかった

Clarkeは、PRRMがエリート集団になっていたこと、資金が企業や団体から出ていて理事をそこから受けざるをえなかったこと、政府とも近かったこと、などがその原因であるとしている。

 

第1期PRRM後半(1972年〜86年)


 1972年、マルコス大統領は戒厳令を布き、市民の自由を制限、数千人を刑務所に収容した。PRRMは組織の存続を優先して、地方行政開発省(Ministry of Local Government and Community Development)の進める村落技術者プログラム(Barangay Technician Program)を実施することとした。さらには保健省のプログラムも手掛けて、実質的に政府の下請け機関となった。

 第2期PRRM再興の立役者となるオラシオ・モラレスJr.は、当時の状況を分析して次のように語っている。

 PRRMは、貧農たちが変えたいと思っていたまさにその構造を支える手段となっていた。その結果、NGOと民衆組織両方の信頼を失った。

 こうした状況が長く続くはずはなく、優秀な人材は離反し、独裁政権から距離を置きたい海外の基金からの支援も途絶えた。さらには最大の支援者であったビジネス界も、「フィリピン社会進展のためのビジネス(Philippine Business for Social Progress)」という別組織を作ってそちらへのシフトしたため、PRRMの資金源は枯渇した。
こうしてPRRMは組織としての力を失い、政府のプログラムを実施する能力もなくなったため、70年代半ばからは政府との契約も次々とうち切られることになった。PRRMは施設を貸したり教育施設をつくったりと様々な方法で資金を調達するが、活動はますます低下した。1981年には69年から受けていた「フィリピン慈善くじ(Philippine Charity Sweepstakes)」の支援が終了、PRRMは債務超過の状況になり、米国国際開発庁(United States Agency for International Development - USAID)から受けていた認定も取り消され、84年にはスタッフが4人だけとなって実質的な休眠状態となった 。

 

第2期PRRM前半(1986年〜1998年)

 1986年2月、マルコス政権がエドサ革命により崩壊し、逮捕されていた反政府活動家たちが釈放された。フィリピンに民主化の春が訪れる。伝統的なコミュニティ開発タイプのNGOはそうした左翼活動家を必ずしも受け入れなかったが、PRRM理事を務めていたIIRR代表のフラビエおよび68年から71年までPRRM代表を務めていたマナハン上院議員が、反政府活動家として捕らえられていたオラシオ・モラレス・ジュニア(Horacio Morales Jr. a.k.a Boy Morales)をPRRMに招いた。

 モラレスは1943年ルソン島タルラック州生まれで、1965年フィリピン大学経済学部卒、1968年にはアメリカ・オクラホマ大学経済学部を卒業し、68年から77年までマルコス大統領府の経済開発担当官として活動、副官房長官まで務めたエリートである。77年には、若手官僚の名誉である「10人の傑出した若者賞(Ten Outstanding Young Men Award)」受賞者として名が挙げられた。しかし、マルコス大統領の戒厳令政策に対立していたモラレスは、授賞式には出席せず、代わりに共産党のフロント組織である民族民主戦線(National Democratic Front - NDF) と行動を共にするという宣言を送りつけたという。そのまま地下活動に入ったモラレスは、82年には逮捕され、86年まで入獄していた。
 当時、PRRMには資金も支援もほとんどなく、わずかに「子会社」的組織であったIIRRからの支援で支えられていた。そのPRRMの再建を、理事会はモラレスに託し、彼を代表に選んだ。
 代表就任後、モラレスは、新しいスタッフの選定を行った。その一人が共にNDFで活動していたイサガニ・セラノである。1949年生まれのセラノは、71年以来フィリピン共産党(CCP)の中央委員会政治局で「急進的な社会変革に向けて、民衆や他のグループを導く 」地下活動をし、73年から76年と82年から86年の2回計7年間獄中生活を送った筋金入り左翼である。セラノは副代表に就任、主に理論構築を担当するようになった。
 モラレスはそれからNGOのリーダー、政府要職者、農民リーダーらと精力的にミーティングを開き、「人々のエンパワーメントによる農村開発」というスローガンにまとめた。第二期PRRMのスタートである。
民主化の機運に燃えた若者たちは、続々とモラレスの元に集まった。当時の熱気について、学生ボランティアとして参加し、翌年スタッフとなったヴァージニア・パギオは次のように語っている。

ビルの一室の狭い事務所に、電話一本だけ。お金はないし、将来の見通しもない。でも、ボイ(モラレス)はいつも陽気で、私たちは開発や未来のことについて夜中まで話し合った。みんな若くて理想に燃えていたから、毎日楽しくてしょうがなかった。

 資金については心配はいらなかった。世界的にもNGO活動が大きく動き始めていた時期で、世界各地の援助団体がフィリピン国内のNGO支援に動いた。そのひとつがオランダ国際開発協力機構(Netherlands Organization for International Development Cooperation - NOVIB )で、まずモラレスとセラノをアジア各地への視察旅行に招待した。二人がSRDDPの原形を考え出したのはこの旅行でのことである。それに続いてNOVIBはかなりの額の資金提供を開始した。それを受けて、1988年、PRRMはバターン・イフガオ・ヌエバエシハ・カマリネススル・コタバトの5州で活動を開始した。

 1991年のピナツボ火山噴火に際しては、多くのボランティアが災害救助に参加、PRRMもそれに呼応してタルラック・サンバレス・パンパンガ3州にフィールドオフィスを設立、災害支援だけでなく地域再建にも取り組んだ。また、政府各機関とも協調し、カミギン支部を開設した。こうして92年までにはPRRMは300人の開発ワーカーを抱え、11州で活動するフィリピン最大級のNGOとなり、97年には400人のワーカーと18州での展開を誇った(図1)。

 

第2期PRRM後半(1998年〜現在)


 1998年、モラレスは、PRRM代表の座を辞してエストラダ政権の農地改革庁長官に就任。PRRMは99年国会議員ウィグベルト・タニヤダ(Wigberto E. Tanada)を代表に迎え、2000年には菓子会社の寄附によるケソン市内の5階建て本部に入居した。この本部はパーティもできる自前の食堂設備を備え、ライブラリー、会議室とともに、スタッフのためのフィットネスルームまで設置された立派な建物である。
 しかし、この時期からPRRMは深刻な資金不足に悩むことになる。

 1986年以来PRRMを支えてきたNOVIB、および同じく大きな支援団体であったドイツのジャーマン・アグロアクション(German Agro Action - GAA)他の基金が、相次いで支援の終了を宣言。PRRMは、50年目にあたる2002年を期に次の50年を考えるNext 50 Years計画を策定し、開発援助プロジェクトの展開とともに、フェアトレード事業の実施、ツアー事業の増強など利益確保を試みてきたが、資金難は深刻で、2003年3月には多くの支部を閉鎖し、残った支部もスタッフは1人か2人のみという体制に縮小した。
現在は本部スタッフも含めて50人という一時期の10分の1の体制になっており、開発の哲学と現実の行動力両方を併せ持ったNGOであるPRRMは、第1期末期以来の苦況に陥っている。

無断転載はご遠慮ください 2004.3 小野行雄