2008年07月25日

公共性と私性

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 前回書いたことのゆるやかな続き。

 教育学者の広田照幸は、「一元化や同化を求める『公共』観に対して、多様性や異質性によって成り立つ『公共』観を対置させる」ことを提唱している(『21世紀の社会と教育』2008、アドバンテージサーバー)。
 たとえば冷戦時代にあったような一定の社会像や目標がなくなった今、いろいろなビジョンを考え、提出できるような市民の力こそが必要なのだ、と広田は言う。

 広田によれば、教育基本法改正(改悪)反対運動の中で唱えられていた、国家による心の領域への侵害への反対、という図式には「ある種の狭さ」があった。「『私』を守った先にどういう社会の連帯や共同を描くのか」が、この反対運動では「どうもよくわからない」。
 そのままでは、どうせみんな違うんだから勝手にやればよい、という価値相対主義とか、自分の回りの生活だけが大事だという私生活主義に陥ってしまう。そうではなくて、「具体的な国家観とか社会観とか人間観とかは、多様な可能性に向けてオープンにしておいて、そこの選択は個々人に委ねてしまう」ことが必要、ということだ。


 60年代から最近まで、公的な介入を排除して私的な領域を守ることこそが、市民的自由を獲得する、ということだった。そこには、何であれ私的なものに対する公的な介入を防ぎたい、という意識があった。そうした「公的な介入」には、いわゆる官僚支配も含まれる。そこで、たとえば郵政民営化がむしろ左寄りから支持されるような現象も起きてきたのだ。
 一方、それと対立するような「大きな政府」が、福祉政策を望む左翼と、公共政策を維持したい保守派との両方に支持されたりもする。市民的な自由を守るために公的なものを必要とするのかそうでないのか、決定的なビジョンはまだない。
 それは端的に言えば、私的に儲ける自由の範囲が決まらない、ということ。もう少し過激な問い方をすれば、他者からの搾取の自由はどこまで私的な自由と言えるのか、ということだ。「金を儲けることのどこが悪い」と言った某社長の言葉は、ここを突いている。

 このところ、さまざまな規制の復活が報道されてきている。公的な規制と私的な自由のバランスに、答はない。ちょうどいい支点を求めて、あっちへいったりこっちへいったり、揺れ動きながら探していくということになるのだろう。
 

 ところで、写真は近くのスーパーで安くなっていたからと妻が買ってきたパパイヤ。パッケージにはただ「フィリピン産果実」とだけ書いてある。「果実」って。なんだか分からないで売ってるわけ??これには規制はないのか??
 我が家では、苦い、臭いと不評だった。えー、熟していておいしいのに。ほとんど一人で食べました。 

2008年07月23日

公権力に依存するということ

 落語『黄金餅』は、見舞っていた金山寺味噌屋の金兵衛の目の前で長屋の住人・西念が死んでしまうところから始まる。
 「お、おぃ!しっかりろよ、西念さん!・・・いけねぇ、くたばっちまった。」
 その弔いについて金兵衛に相談された大家は、「本来なら大家がやるところだが、お前が頼まれたんならやってやってくれ」と金兵衛に頼む。ある理由からそれを待っていた金兵衛はそこで、長屋の連中と一緒に、西念を漬物桶に詰めて寺へ運ぶ。貧乏寺でわけの分からないお経をあげてもらったあと、焼き場へ運ぶのも金兵衛、骨壷に入れられた遺骨を寺に運ぶのも本来は(『黄金餅』ではそれをやらないのだが)金兵衛の役目になっている。
 
 実は西念が死ぬ前に、持っていたお金を餅に挟んで呑み込んでいた・・・というのがこの話の面白いところなのだけれど、それは置いておいて、僕にはこの「死」の身近さが面白い。

 「死ぬとこんなになっちまうのかなぁ、いい人だったのに、なむあみだぶ、なむあみだぶ」と大家さんは言う。その一方でおかみさんは線香と供え物を買いに走り、長屋の連中は次々に現れて線香をあげていく。

 ここにあるのは、今生きている人たちによる、亡くなった人への当然の見送りの一部始終だ。此岸にいる人が彼岸に渡ってしまう。それを見送り、あとの始末をつけるのは、此岸に残っている人たちの仕事だ。

 ところが、現代ではそうなっていない。彼岸に移ったとたん、その面倒は、医者・看護師・葬儀社の人・火葬場の担当の人の手に移る。子どもであっても夫や妻であっても、勝手に触ることはできないところへ行ってしまう。いや、実はできるのだけれど、できない、と感じてしまう。
 此岸と彼岸を分けるものは、単なる場所の違いではなく、「公的なもの」なのだ。

 こうした「公的なもの」はどこにでも入り込んでいる。
 たとえば教育。自分の子どもであっても、教育権そのものは国に取り上げられている。自宅で主に親から学ぶ「ホームスクール」を受けている子どもはアメリカではすでに200万人いるそうだが、日本では親が就学義務を怠っているとみなされる。
 誰かに暴力的な行為を受けた場合もそうだ。それに対する報復は、自分の手で行ってはならなず、公権力に頼るしかない。それが現代のルールだ。

 フィリピンの海で、禁漁区を守る活動をするグループを「バンタイ・ダガット(海の番人)」という。こうしたグループはしばしば、敵対的な漁師たちから攻撃されたりする。そのために許可を得て武装して臨むこともある。
 本来は警察なり沿岸警備隊の仕事だ。なのに、なぜ?
 一つの理由は、警察では手が足りないから、というものだが、もっと本質的な理由がある。
 「警察は、自分たちの海じゃないから、真剣に取り締まってはくれない。賄賂でも出されれば簡単に釈放してしまうし、役に立たない。自分たちの海は、自分たちで守るしかないんだ。」
 あるバンタイ・ダガットのメンバーに聞いた言葉だ。

 「公的なもの」に守られ、その分誕生から死までさまざまな制約を受ける社会。人間が文化として積み上げてきた、安心の社会だ。その一方で、すべてを自分たちでやる社会に対する憧れのようなものも、僕にはある。
 自分のことだから、自分でやる。その潔さと強さも好きだ。

 どこまで自分の生と死を自分に取り戻せるか。それも生きる価値の大事なポイントのような気がする。

2008年07月21日

ジョセフィン・モニカ

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 友人の娘・ジョセフィン・モニカが来訪。
 彼女はアメリカ人だが、父親(僕の友人)は18歳まで日本にいた在米日本人。母親は中国系二世のアメリカ人。シンシナチの高校で日本語のクラスをとったことはあるけれどあまり話せず、中国語もだめで、英語しか話せない。
 それでも彼女の家では、寝るときには子どもを間に挟んで川の字になって眠り(子どもは三人いるので、大きな川になるが)、家に入るときには靴を脱ぐ。シンシナチ近くの敷地1500坪の家に住んでいるけれど、和洋中折衷の、ある面ではいまどきの日本人より日本的な育て方をさせられた。
 そのおかげで、この秋大学に進むのだけれど、同年代の日本人と比べても物静かでおっとりした性格。高1の娘が緊張しながらいろいろ案内して歩いているのだが、「ジョセフィンって自分からおしゃべりしないねー」と、おしゃべりな娘は驚いていた。

 昨晩は、次男が大学生十数人と集まった横浜国際花火大会会場へ連れて行ったのだが、そこでもにこやかに微笑むばかりだったそうな。
 それにしても、と高1の娘の強烈な感想。「国際政治系の大学生だっていうのに、みんな英語が話せないねー」。次男によれば、「お前の妹英語うまいな」と言われたとか。
 がんばれ、日本の大学生。

2008年07月19日

寒いよりも暑い方がいい

 みなさん、こんばんは。きょうは、寒いよりも暑いほうがいい、という題で話します。(拍手)
 
 寒いよりも暑いほうがいい。それは、そもそも人類発祥の地がアフリカだということからも明らかです。人類は本来、暑いのが好きなのです。暑いのが好きでない人は、人間じゃない。みなさんのまわりでもそうですよ。暑いのが好きなのが、人間の姿なのです。(会場からブーイング)いえそうなんですよ、ほんとに。
 
 それにですね、暑いほうが人間は活動的になります。
 寒いと人は、どうしても閉じこもりがちになる。部屋にじっとして、酒ばかり飲むような状態になってしまいます。ほら、世界でも大体、北のほうの人が大酒飲みでしょ。じっとして、悪いことばっかり考える。そして体を壊す。ね、いけません。寒いところはいけません。
 その点、暑いところでは人はどんどん外に出てくる。夏の夜の夕涼み、いいですね。日本ばかりじゃないんですよ。暑い国ではみんな、夕方外に出て涼んでいます。家も開放的です。そこで他の人たちとのコミュニケーションもとれる。だから暑い国は平和なんです。え?いや、そうですよ。暑い国は平和です。そうでない国もありますけど、少しは。いや、まあだいぶありますが。最近はほら、エアコン、あれがいけない。あれで人々は家に閉じこもるようになった。それで、平和でなくなったんですね。エアコンをやめればいいんですよ。そうだ、エアコンのせいだ。戦争はエアコンのせいなんですよ。

 寒ければ着ればいいが、暑いとそれ以上脱げない、などと言う人もいますが、それはみなさん、失礼ながら、視野がせまい。
 寒いのに着るものがない、暖房しようにも燃料も買えない、というのは命に関わります。
 その点、暑いところはいいですよ。とりあえず寝られます。インドのリキシャのりなんて、リキシャの上でそのまま寝てるんです。インドネシアのリゾートホテルでも、従業員が外のベンチで寝てます。それでも大丈夫ですからね。私の家でも、エアコンなんてほとんど使いません。ただ場所を変えて、風の通るところで寝ています。それで大丈夫ですからねぇ。
 暑い、死ぬなんて言う人もいますが、暑くて死んだ人なんていないでしょ。寒さで死ぬ人はいっぱいるんですよ。え?あ、インドね。あ、ヨーロッパでも。うん、まあ、暑さで死ぬこともありますね。そうですけど、でも暑いならまだいいじゃないですか。え、熱中症?あ、きょう日本でたくさん出た?そりゃねえ。いや、それは困りますが、でもほら、いいんですよ、暑いほうが。

 大体、暑いと、うれしいじゃないですか。
 私など、きょうも真昼間、10キロ走ってきましたよ。汗びっしょりで。気持ちいいですよ。夜の空手の練習も、汗だくで、もうべとべとで、うれしいですよ。(会場からバカじゃないの、の声)なんてこと言うんですか。みんなそうですよ。いや、みんなそうです。寒いのが好きだなんておかしいですよ。断然、暑いのがいいんです。あ、いたっ、投げないで。あ、やめてください。大体ね、こんなところでみなさん、あ、わっ、うわぁ、あの、あのね・・(マイク途切れる)

  

2008年07月14日

ミュージカル「ピピン」

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 娘とデート。
 チケットがとってあったのに、出かける直前になって、あるべきところに見つからず(間違えて捨ててしまった可能性大)、当日券頼みでとにかく天王洲銀河劇場へ。S席のいわゆるボックス席が取れて、高かったけどいい席でした。娘は大喜び。まあいいか。

 楽しんだけれど・・・なぜ「ピピン」?という疑問大。
 72年のブロードウェイミュージカルだそうで、それの30年ぶりの上演だそうだ。確かに70年代っぽさが濃厚。

 まず、若者の、生きる意味探し、というテーマ。
 そして、自己言及性とアンチ・クライマックス性。
 ちょうど一昨日書いたことに重なるのだけれど、当時、表現は行き詰まっていて、シニカルな批評性をその中に持たないと、表現として成り立たなかった。小説のヌーボーロマン然り、つかこうへい劇団の演劇然り。そうした含羞のまなざしが、この再演シナリオにも充満していて、今となってはそれがうるさい。表現の中での自己言及は、今では「オタク」のものいいの中にもっとも見られるもので、それをこんなミュージカルの中でやられてもねぇ。
 それに、ローマ帝国の若者の苦悩を現代の若者と重ねるというテーマそのものも、まさに70年代だ。「ジーザス・クライスト・スーパースター」など、当時新鮮だったというのはよく分かるのだが、今となっては、歴史性を無視した現代への置き換えは、いつの時代でもどこの場所でも、人間はみな同じでしょ、という夜郎自大なアメリカ的傲慢さがつきまとって見える。

 それでも、高校でダンス部に入り、文化祭で3つも4つも役割を引き受けている娘が喜んでいろいろ語ってくれるのを聞いているだけでうれしいし、なんといっても劇場に娘といける幸せったら、それで十分だけれど。生のパフォーマンスというのはいいしね。

 でも、昼間炎天下を10キロ走ったあと行ったので、喉が渇いてしょうがなかった。

2008年07月12日

今の若者は夢がない、なんてことはない

 さまざまなところで出会う若者たちの傾向。今の若者たち、と一括できないことは承知の上で、自分が若者だった頃と比べてみると・・・


1 地元志向・友人志向

 地元が大好きだ。1マイル族と呼ばれるそうだけれど、自分の家とそのまわり、友人たちと一緒に遊ぶことが大好き。大きな町へ行きたい、という志向があまりない。


2 多様な意匠

 サザンオールスターズの「ミス・ブランニュー・ディ」に、次のような歌詞がある。

  ミス・ブランニュー・ディ
  みなおなじそぶり
  ミス・ブランニュー・ディ
  誰かと似たみなり

 1984年の若者たちの姿を歌っているのだが、この歌詞は今の若者にはあまりあてはまらない。これが今のミス・ブランニュー・ディ、という姿が決められないのが今だ。

ファッションも、嗜好も、少なくともそのパターンははるかに細分化されている。


3 非高級品志向・シンプル志向

 ユニクロがヒットしたあたりから明らかになってきた。リーズナブルな買い物が自然。

 
4 素直な表現

 小説でも歌詞でも演劇でも、ひとひねりもふたひねりもしないと恥ずかしくていられなかった・・・という時代は終わったらしい。なんともストレートで素直な表現であふれている。

 これは、「いきものがかり」の『帰りたくなったよ』の歌詞。 

  帰りたくなったよ 君が待つ町へ
  かけがいのないその手に今 もう一度伝えたいから
  帰りたくなったよ 君が待つ家に
  聞いて欲しい話があるよ 笑ってくれたらうれしいな 

 ものすごく素直な、地元志向・友人志向・家志向の歌だ。井上陽水の「傘がない」がある種のシニカルな感性として受け取られたのと比べるとよく分かる。

 
5 優しい社会性

 優しさというのは、身近な人にのみ発揮される、とよく言われたものだ。それが大きく外に広がっているように思われる。
 端的に、ボランティア的な活動や環境に対する活動をしようとする若者が増えている。秋葉原の事件のときに、被害者を助けようと手を差し伸べた若者たちをみよ。


 で、こんな話を七十近い叔父にすると、「今の若者は夢がない」と言う。「あれがほしいというものがないし、上昇志向がない。かわいそうだ。」
 それがきっと、日本の高度成長期を支えてきた価値観だった。さらに言えば、近代主義を支えている価値観でもある。

そうではなく、地域で、シンプルに、身近な幸せで生きていくこと。開発を考えていると行き着く、持続可能な価値観が、いつのまにか若者たちのライフスタイルに反映されている、僕などはそういう感動を持ってしまう。オトナが説いて聞かせたり、キャンペーンをはったりすることとは多分関係なく、新しい価値観ができてきているのだ。

 未来は明るい。若い人たちを見ていると、僕はいつだって、そう思う。

2008年07月08日

なぜG8サミットに反対するのか?

 僕自身は、そして草の根援助運動はかならずしも「反対」の立場には立っていない。草の根援助運動の参加している「G8サミットNGOフォーラム」は、この機会をとらえて人々の声をリーダーたちに届けよう、というスタンスで活動してきた。
 
 では、テレビで「反対」を唱えてデモをしている(それだけではないが)人々は、なにを訴えているのか。我が家の高1の娘の疑問でもあったので、ちょっとだけ考えてみる。

1 根本的な問題として、G8は、組織として存在していない。
 G8サミットに代表としてでてきているリーダーたちは、世界人口の15%の国々のリーダーであるにすぎず、世界の方向性を決めるなんらの権利ももっていない。しかもこのサミットというのは、事務局も持たず、なんの活動もしていない。人々の声を届ける手段がないのだ。
 
2 彼らこそが、新自由主義的グローバリゼーション推進の元凶である。
 新自由主義というのは「本当は弱肉強食の旧自由主義」である、と言うのは佐高信だけれど(『貧困と愛国』毎日新聞社)、これが小さなイデオロギーだったときからここまでに育て上げてしまったのは、他ならぬG8のリーダー層だった。
 この新自由主義がいかに世界の格差を拡大し、人々を苦しめてきたかは『新自由主義』(デヴィッド・ハーヴェイ0007、作品社)および『悪魔のサイクル』(内橋克人2006、文藝春秋)がよい文献だ。

3 サミットの公式声明は、ことごとく実行されていない。
 僕が以前関わっていたジュビリー2000の主張は、かなりの部分、サミットが取り入れてきた。ところが現実的にはさまざまな手続きを立ててしまうので、ほとんど実行されていない。これについては草の根援助運動顧問の北沢洋子氏の一連の論文が詳しい。

(これらの主張を詳しく知るには、ATTACというグローバリゼーションに反対してきた組織による『徹底批判 G8サミット』(2008・作品社)がお勧め。)

 サミット反対、を唱える世界の人々の声も、確かに大きい。僕たちはそれに十分耳を傾ける必要がある。
 ゆめゆめ、「あの人たち、なんで反対するのか分からない」なんて言わないでください。

2008年07月07日

「開発」と「成長」

 
 「開発」と「発展」は、英語ではともにdevelopment。日本語の語感では他動詞と自動詞の違いがあるし、語源的にもちがうのだけれど、だいたい同じと考えてもいい。
 一方、「成長」growthはちがう、とハーマン・デイリーはいう。
 
 デイリーは、成長は、物質の同化と融合による量的な増加、発展は質的な改善と潜在力の実現、としている。
 デイリーによれば、「有限な環境から得られた物質の同化(吸収)ないし融合による経済規模の量的な拡大は持続可能ではない。質的な改善と潜在力の実現は永続する可能性がある」という(『持続可能な発展の経済学』ハーマン・デイリー2005、みすず書房)。

 地球上の資源が有限だというとき、石油に代表される、閉鎖系である地球にあるエネルギー全体を指している。これの使用を加速させていくのが成長で、質的な変化を加えていくだけなのが開発ということだ。

 一般的な経済学では、そのどちらも同じものとして扱っている。さらに、再生可能な自然資本に関しても、生産も消費も同じ分野で計算される。だから、木を植えることも切ることも同じGNPで計上されてしまう。

 結論。
 「開発」を考えるときには、第一に、その当事者性を検討する必要がある。
 第二に、「成長」と「開発」は分けて考えなければならない。
 第三に、公正な分配をつねに考えるべきだ。

2008年07月06日

「開発をやめろというのか」?

 横浜NGO連絡会主催の「かながわ国際協力フォーラム」の分科会で助言者(どういう立場で、誰に助言するのかよくわからなかったけれど)。JICA横浜センターで。
 
 地球環境を取り戻すには、という分科会で、コモンズ論とか環境と開発について少しおさらいしていったのだけれど、そういう話からはやや外れた議論になった。

 事例発表者が自然破壊的な開発に対する問題点を指摘したのに対して、銀行に勤めているというNさんの発言。
 「途上国の人に、豊かになるのをやめろというのは違和感がある。経済的な進歩を止めることはできない」。
 それが開発一般に対する反対論と感じてそう言ったらしい。事例発表者である地球の木の中野さんは、とても適切に答えていた。

 「今のままがいいからそれで暮せ、と言っているわけではない。当事者が関わらない状況で開発プロジェクトがすすむことを問題にしている。」

 学生のHさんの質問。
 「どういう援助をすればいいのか分らなくなり、いやになることはないのか。」
 自分の今やっていることが正しいのか分らなくなって、NGO活動を止めてしまうという若者がたくさんいるが、という趣旨の質問だった。
 
 僕が答えたこと。「NGOメンバーは、大きな視点で世の中をどうにかしたいと思って活動している。でも、それと同時に自分の目の前にいる一人の人にできることをしたいと思う気持ちもある。その両方で、活動が続いていく。」

 開発のめざすものの話とか、まだまだ話したいことがたくさん。午前中の中田武仁さんの講演もよかったし、意味のある会合でした。

 その後夜の空手はきつかったけど。

2008年07月02日

10歳で離婚した少女―イエメン―

Los Angeles Timesの記事。

 Nujoodという10歳の女の子が、裁判所にやってきて、裁判官に離婚したいと申し出た。

 相手は30過ぎの男性で、困窮した両親は、大人になるまで保護し育ててくれるという約束で結婚に同意したのだという。でも実際には、結婚したその日から性的な関係を迫られ、暴力を受けた。
 イエメンでは法的な結婚年齢は15歳だが、慣習的にははるかに早く、2006年の調査では女性の52%は18歳前に結婚しているのだという。
 
 Nujoodの話を聞いた裁判官は同情し、彼女は法的な保護が受けられるようになって、助けてくれる弁護士も現れ、夫と父親は逮捕された。イエメンでもさすがにこの話は大きなニュースになり、他の似たような女の子たちが名乗り出てきたり、結婚年齢の引き上げなどが議論されている。

 しかし、この話で一番すごいのが、このNujoodという女の子だ。伝統的には顔をさらすのもはばかれるであろうこの地で、顔写真とともに話が報道されることに同意し、「結婚はこりごり。学校に戻って勉強を続けて、苦しめられている人を助けるシャダ(自分を助けてくれた弁護士)のような人になりたい。他の女の子たちのお手本になりたい」と言っている。

 人は、経験やたたかいの中で強くなる。どんなところでも、希望を失わずに前向きな人間がいる。それは教育の程度とかとはまったく関係がない。
 先日インドから来ていたシャクンタラもそうだった。小学校を出ただけで、14歳からNGOで働いてきた彼女は、地域で初めて人前で自転車に乗った女性であり、初めてバイクを乗り回した(そして今も毎日オフロードバイクで各村を回っている)女性だ。
 各地で活躍している人たちの暖かさ、やさしさ、そして強さ。僕はひそかに「鄙の賢人たち」と読んでいるのだけれど、このNujoodにも同じものを感じる。応援したい気持ちでいっぱいだ。

 NGO活動をしていると、こうした人たちを支え、支えられ、知り合い元気付けられる機会に恵まれる。それがこうした活動をする一番のうれしさかもしれない。

ちなみに、新聞記事とは内容は違うが、同じライターの書いているNujoodに関するブログがこちらから読めます。賢そうな彼女の写真も。 

2008年07月01日

日比経済連携協定は格差を増大させる


 フィリピンから介護士がやってくる、というニュースが流れたのは2006年の秋。それから2年たっても進展しないのは、フィリピン国内で反対の声が強く、批准されていないからだ。そうこうしているうちにインドネシアとの協定の方が先に発効して、インドネシア人看護師・介護士が1,000人入ってくるというニュースも流れている。
 
 この協定について、フィリピン大学のローランド・シンブラン教授(「ちぇろのフィリピン大学留学日記」に登場しているS教授)は次の8つの問題点を挙げている。

1 不平等である。
 日本は16分野を保護貿易領域としているのに対し、フィリピンは5分野のみである。

2 フィリピン経済への良い影響は限定的。
 フィリピン人看護師は日本では最底辺の看護師にならざるを得ない。農業でも漁業でも、フィリピン人に対する悪い影響のみ。

3 日本の有害廃棄物輸出への道を開く。
 医療廃棄物、産業廃棄物等が関税なしで輸出できるようになる。

4 自由貿易は「途上国」の開発を進めることにならない。
 常に「先進国」側がさらに利益を得るようになる。

5 フィリピンの経済政策を著しく制限する。
 日本側の投資の自由度が大きい。

6 フィリピンの産業発展を阻害し、就業機会を減少させる。
 フィリピン国内の小規模産業は自由貿易に押しつぶされる。

7 フィリピン農業が衰退し、食糧供給を不安定化する。
 フィリピンバナナとパイナップルの輸出自由化が大きく宣伝されているが、フィリピンから日本のうち食料品は7.4%に過ぎず、しかもその大半はデルモンテのような多国籍企業からのもので貧しい農民にはなんの利益もない。

8 日本企業に大きな利益を与え、フィリピン経済に悪影響を与える。


 フィリピン国会はこの8月にもこの協定を批准する、というニュースが流れてきている。日本ではようやく規制緩和の行き過ぎによる格差拡大が認識され始めたところだが、この協定は両国内それぞれの格差―貧困層―増大を進める方向にしか働かないだろう。
 貧しい人々は、常に置いていかれる。この協定が意味するのは、猛威を振るっている新自由主義の新局面そのものだ。


 

2008年06月25日

神奈川新聞2008-6-21の記事

先週の勤務校での授業についての記事が、土曜日の神奈川新聞で取り上げられていた。

 記事の内容は、草の根援助運動ニュースブログをごらんください。

2008年06月23日

国際セミナーファシリテーター

 かながわ開発教育センターK-DECのメンバーとして、湘南国際村にて、某高校の国際セミナーのファシリテーターを務めた。

 学校側のリクエストで環境を扱うということで、温暖化についてのワークショップを行ったのだけれど、とにかくしっかりした生徒たちで、反応もいいし、意見はどんどんでるし、まとめるとなるとリーダー役の生徒がてきぱきと動いていくし、ファシリとしてはありがたすぎて、呆然とさえしてしまう。
 
 CO2量排出量が近年急速に増えている、というグラフを見せると、わぁっとどよめく。意見を、と言ってマイクを向けると誰もが積極的に発言する。すごいなぁ。
 ブータンと日本の生活を比較し、温暖化を止めるための方策をランキングしていくという手順。出されるものを拾い上げてランキングするので、意見が出なかったらむずかしいことになるのだけれど、それも次々とアイデアが出されていく。
 僕が担当したクラスでは、「こういう環境学習の場で学ぶ・知る」というのが一番上になり、二番目が「一人一つ目標をつくる」。「法規制する」というのが一番下になった。生徒たちはみな、人々の良識と行動の正しさを信じているということだ。
 こうした若者たちがつくる未来は明るい。一緒にファシリを行ったK-DECメンバーの共通の感想だった。
 そして同時に、僕としては重大な「格差社会」を実感するものでもあった。
 
 

2008年06月22日

通訳と運転手の1日

 インドからきたローズとシャクンタラを車でホテルまで迎えに行った。

 まずは草の根援助運動を支援してくれている神奈川高教組へ。僕自身も組合員だが、2000年に支援を開始、インドの教育プロジェクトを実施してきている。
 150人の分会代表者の前で、報告とお礼。

 続いて草の根援助運動の支援者を中心とした交流会兼報告会。20人ぐらいの、わきあいあいとした会合。2時間半ほど。
 次は横浜のサポートセンターへ。6時15分から8時まで、講演会。
 そのあと交流会。
 
 11時近くに、ホテルまで送った。

 僕はずっと、運転手、そして通訳。通訳というのはすべての話を聞いて、そのすべてを英語か日本語に訳しているのだから、休む間がない。かなり大変なのです。 尊敬する先生、敬愛する友人、若い友人たちも来てくれて楽しい一日ではありましたが。

お疲れさま>僕。

 草の根援助運動のホームページ、そして活動報告のブログも、ぜひご覧ください。ぜんぶ僕が書いています。

2008年06月20日

ローズとシャクンタラによる授業

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 ローズとシャクンタラによる授業の日。数日前から色々考えてワクワク、昨晩も2人の泊まっているホテルで打ち合わせをして準備をしてきました。
 
 生徒は22名、そのうしろにたくさんのオトナが並んだ教室。
 ティームティーチングをしている教員3名、他にも興味を持って見に来てくれた教員数名。草の根援助運動から山中さん、今回の来日のプロデューサー兼スポンサーの前神奈川高教組委員長竹田さん、タウンニュースの記者さん、神奈川新聞の記者さんも来てくれて、さすがに生徒たちもちょっと緊張(それでも平気で寝たりヘッドホンで音楽聴いたりというのもいたけれど、それはそれでたいしたものです)。
 
 いろいろと段取りを考えていたのだけれど、ローズはスライドを見せながら話がどんどん先に進んでいくし、クイズにしようとしたことで答を先に言ってしまうし、段取りはあまり役にたたず。実のところ、ちょっと慌てました。
 
 でも、生徒が考えた答に対するコメントとか、写真を見ての生徒の反応など、いいやりとりができたと思います。

 記憶に残るやりとり。

1 おなかが膨れた子どもの写真を見て「妊娠?」
  そうじゃない。では、なぜおなかが膨れているか?
 「栄養失調?」「食べるものがなくて水の飲みすぎ?」など、色々と出てきた。そのうちに正解にたどりついた。正解は「寄生虫」。うわー、と言う生徒あり、ちょっと深刻そうに額にしわを寄せる生徒あり。

2 シャクンタラが髪の間から抜き出したナイフを見て「わー、それで頭切らないの?」「それで臍のお切るんだ!」
 そうした習慣を命のためにはやめさせるべき、という生徒のコメントに対し、習慣をやめさせるのではなく、徐々に変えていくのだ、と説明したローズ。それを聞いて大きくうなずいた生徒数人。

 段取り通りにはいかなかったけれど、あちこちで丁々発止のやりとりがあったのではないかな。
 
 ちなみに、シャクンタラがやった数取り歌では、聞こえる歌声は後ろのオトナの声ばかり。高校生たちはぼーっとしているか、緊張して口が開かないか、気にせずおしゃべりしているか。それもまた面白い状況でした。

 勤務校の生徒たちにとっても、それなりの印象深い授業になったと信じます。


写真は、夜の交流パーティで。真ん中はおとなたちに混じってしっかり英語でスピーチした、高1の娘。左はユースのUさん。

2008年06月16日

ポンちゃん青年海外協力隊でニカラグアへ

 ポンちゃんことTさんは、昨年ボランティアデーに来て、色々な仕事を手伝ってくれた方。誰にでも好かれる彼女は、フィリピンスタディツアーに参加して、どこでも子どもたちに取り巻かれていた。
 昨秋青年海外協力隊に応募、そのトレーニングが終わって、来週ニカラグアに赴任することになった。

 きょうはその送別会(兼スタディーツアー同窓会)。関西からもこのためにUさんとTさんが来てくれて、9人集合の賑やかな会になった。

 草の根援助運動のユースやツアー参加者から協力隊員になった人は多い。現運営委員の柘植さんと川崎さんも、それぞれセネガルとタイから昨年帰ったばかり。協力隊帰りはそろそろ10人近くになるかもしれない。

 そういえば、昨夏ツアー参加者の翔くんはフィリピンに、マツケンはアメリカにいる(フィリピン留学中の森さん『ちぇろの留学日記』をごらんください)。みんなよく軽やかにでかけていくなぁ、と感心する。

 そろそろ30年近くも前になるけれど、僕のアメリカ行きは、人生を賭けるほどの大きな決心だった。もうまっとうな道は歩まない、という実は悲壮な決心でもあったのだ。帰って来てたまたま大量採用時代の高校教員になってしまったのでそのまま今に至っているけれど、清水の舞台どころかグランドキャニオンから飛び降りるぐらいの勢いで行ったアメリカだった。

 いや、みんなもそれぞれに、大きな決心をしてのことなのだろう。その表し方が違うのだろうと思う。その軽やかさ、しなやかさ。こんな若い人たちが作っていく世界は、きっと美しい世界になっていくにちがいない。

 ポンちゃん、いってらっしゃい。
 
 

2008年06月13日

授業は60点

 来週のローズとシャクンタラの授業の準備。

 最初のインド―日本シミュレーションは40点。生徒たちは、初めての合同授業だということもあって、なかなか動こうとしない。それぞれの広さのロープの中にインドの人たちと日本の人たちに入ってもらうのはうまくいかず、識字やケータイについても、実感的に理解させることができなかった。

 写真を見ながらの分析は60点。結構いいところまで見ている生徒はいて、こちらの意図以上に理解してくれたと思う。

 最後のドンゴリアコンドの問題に対する解決法を考えるアクティビティは80点。これが一番難しいと思っていたのだが、案に相違、きちんと理解していい答を出す生徒が多かった。

 今日の教訓。
1 シミュレーションゲームはむずかしい。
 理由は2つ。
 1つは、生徒たちの基本スタンス「かったるい」を突き崩すのがとてもむずかしいこと。体を動かして参加することへのハードルは高い。肉体的にも精神的にも、みんなが参加するのはむずかしく、それができないとシミュレーションゲームは成り立たない。
 もう1つの理由は、もともと背景知識や興味がない生徒にシミュレーションで理解させることがそもそもむずかしいということ。シミュレーションで面白がれるのは、それを現実との対比で類推できる知識があるからで、そうでないとなにがどういう現実を表しているのか、分からないままに終わる。

2 フォトランゲージは有効。
 ビデオを見るよりも、むしろフォトランゲージがよい。じっと眺めることができれば、なにか言いたくなることは多い。うまい題材を準備すれば、生徒は結構勝手に理解してくれる。

3 「健康」「出産」など肉体的なものに対する共感性は高い。
 自分自身の経験が結びつくことが高いからか。今日の例では、出産時の子どもの死亡や一人で出産する習慣などに、生徒の感想が集まった。出産ということに対する興味かもしれない。

 40点、60点、80点。全体として、60点。ファシリテーターとしてはギリギリ合格ラインかな。

 来週のシャクンタラとローズの授業が、半分楽しみ、半分心配。どうなることか。

2008年06月12日

明日の授業(インドからのゲスト事前学習)

来週インドのローズとシャクンタラが来日する。
僕の勤務校にも来てもらい、2時間授業をやってもらうことになっている。
授業は3年生の選択科目で、「福祉」と「地理」の生徒の合同で22名になる。

 問題は、勤務校にはあまり集中力が続かない生徒が多いということ。特に午後の授業なので、眠くてぼーっとしてしまうことが多い。どう興味を持ち続けさせるか、工夫のしどころだ。

 来週の木曜日がその日なので、明日(今日)はその事前授業をする。

 今考えているのは、次のようなプログラム。

1 インドのイメージ。当然「カレー」が一番に出るだろうから、さまざまなインド料理の写真を適当に配り、それをそれぞれの生徒に表現してもらう。「カレーとパン」「カレーとご飯」ぐらいしかでないだろうが、実はいろいろな写真を見ていた、ということで同じ「カレー」といっても実は豊富な種類がある、ということを示す。

2 サリーのことが出れば、サリーをちょっとだけ誰かに着せてみる。当然うまくいかないので、それは来週のシャクントラに任せるということで。
 
3 いつも使っているDEARの「100人村」のインドバージョン。
 インドと日本の人口の割合に合わせて、それぞれの生徒に役割カードを持たせる。インド人が16人、日本人が2人。言葉の通じるのは、そのうちヒンディ語が6人、ベンガリ語が2人など。
 ケータイを持っているインド人は2人だけ。栄養不良のインド人が3人。非識字者は6人。
 こんなカードを持って、インドの状況をシミュレーションしてみる。
 
4 あいさつのそぶり、写真などでもう少しインドを感じてもらう。

5 NGOについての一般的な解説。

6 ローズらのニューホープについての概説。

7 プロジェクトサイトでの保健衛生や識字に関する具体的問題を示し、解決策を考えてもらう。答(実際のプロジェクト)は、来週ローズとシャクンタラに生徒たちの考えた策と現実を対比させながら語ってもらう。


 ・・・さて、うまくいくか。簡単にはノッてはくれない生徒たちだから、6割程度乗せられれば合格としたいけれど。 

2008年06月09日

40年に一度の記念すべき・・・

 アフリカ日本協議会の稲場雅紀さんが、学習会の枕に使われた話。

 「今年は5年に1回のアフリカ支援会議(TICAD)と8年に1回のG8が両方国内で開催される、40年に一度の大事な年です、と外務省の人はよく言う。さて、この話のどこがおかしいのでしょう?」

 5年に1回と8年に1回が重なるのは、最小公倍数だから40年じゃないのか・・・あ、20年に1回かな?いや、80年??
 
 ・・・ということではなくて、稲場さんによれば、G8もTICADも、これから40年後も同じように行われていると考える方がおかしい、ということだった。

 なるほど、G8が始まったのは1975年、それも最初は6カ国の首脳が集まって会合を開いたに過ぎなかった。カナダ、ロシアが参加して今のG8になったのは98年。サルコジ大統領はさらに、中国やインドを加えてG13にするべきだ、と提案している。40年後にG8会合が行われている可能性は、とても低い。
 TICADにいたっては、今年で4回目。これからあと8回、40年も日本はアフリカを支援し続けるのか?アフリカは40年支援されても、まだ日本に支援を求めないといけない状態であり続ける、と考えるのはむしろ傲慢だろう。

 今から40年前、1968年の日本は、高度成長の後期。その4年前にようやくOECDに加盟し、「先進国」という自負を持ち始めたに過ぎなかった。進歩、成長と叫びながら、公害に苦しんでいた頃だ。これから40年後、この日本がどうなっているのか、そう簡単には予測できない。
 それどころか、世界の構図がどうなっていることか。アフリカ諸国は60年代前半にはまだ、今ある国の半分も存在していなかった。今年TICADに来た52カ国が、これから40年後にどうなっているのか、そこに住む人々はどんな状況になっているのか分からない。今とは全然違っている、と考える方が現実的で、しかも希望がある。

 40年後。もしかしたら、世界はずっと平等になり、日本は豊かな世界の海の中の平和な島のひとつとして、どこの人々とも仲良く暮らしているのかもしれない。
 40年後、日本という国はもうなくなっていて、アジア連邦の中の一地方になっているのかもしれない。
 40年後、世界はどこかの強大な帝国により支配される、恐怖の世界になっているかもしれない。
 あるいは・・・。

2008年06月02日

NGOのするべきこと

 開発援助を行うプレイヤーの中で、NGOの経済規模は驚くほど小さい。

草の根援助運動は、多い年で三千万円、昨年は一千万円ちょっと。数千億円規模のODAなどと比べたら、アリほどの大きさもない。しかも日本では、億単位の活動資金を持っているNGOさえ、数十しかない。

 昨晩のNHK・BSのディベート番組(フリーダさんも出演していた)の中で、アフリカのNGOメンバーの一人(だったか)が、「貧困の海の中の幸せな島」というような比喩を使っていた。支援により幸せな島になる一部の地区や人々が、何年かの支援期間が終わるとまた貧困の海に飲み込まれていく、というもので、実によくわかる喩えだった。

 草の根援助運動のような小さな組織にできることは、とても小さい。そして、その小さな幸せの島は、すぐに貧困の海に飲み込まれる。なんとかして継続的なものにしようと、現地NGOと僕らとは工夫して進めるのだけれど、海の巨大さに対して島はあまりにも小さい。

では、どうすればいいのか。
 方向性として、二つが考えられる。

 ひとつは、貧困の海全体を豊かな海へと変えていくこと。
 もうひとつは、小さな幸せな島をたくさんつくっていくこと。

 貧困の海を豊かな海にするには、高い幸せな島を築き、そこからまわりの海に、栄養分を落としていけばよい。それが世界の「先進国」共通の伝統的価値観だ。しかし、海はいつまでも海であり続ける。たとえ以前ほど貧困でなくなったとしても、中央の高い山を囲む比較的貧しい海であるという事実はいつまでも変わらない。

 小さな幸せな島をいくつもつくっていくこと。これがNGOが目指していく支援だ。しかも、荒波に飲み込まれない工夫を住民自らがして、対抗していける島をつくること。

 社会的インフラの整備や緊急支援、大規模な健康や教育のシステムづくりなど、ODAがなければできないことはたくさんある。一方NGOにしかできないこともたくさんある。

 TICADで福田政権はアフリカ支援ODAの倍増を明言した。それは悪いことではないが、高い島にばかり気をとられる支援になるならば、問題はかえって大きくなる。それはすでに、スーダンでも、南アフリカでも、つい最近のケニアでも、実証されていることだ。

 ODAのゆくえをきちんと見守ること。それもNGOの大きな役割だ。

 開発の質と、価値観に対する発言。小さな規模のNGOが、大きな力を持つこともある。

2008年06月01日

フリーダ見送り

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 TICADに参加するためにケニアから来ていた、フリーダ・ムゴさん。離日すると聞き、彼女をすっかり気に入ってしまった妻が、見送りに行こうと言い出した。
 午前中、NHK・BSのディベート番組に出演し、ホテルに戻っていた彼女。夕方一人でエアポートリムジンに乗ることになっていたそうで、それならと一緒に食事をし、横浜の日本庭園・三渓園に誘った。
 毎日会合と取材ばかりで、「日本はすべてコンクリートでできている」などと言っていたので、違った日本を見てもらったのはよかったかな。行く途中で横浜のドヤ街・寿町の中も少し見てもらい、出稼ぎ労働者の実態についても説明して、かなり驚いていた。

 大学院まで行き、今は開発系のコンサルタントとしても働いている彼女、裕福な家の出かと思ったらそうではなく、ハイスクールから奨学金をもらい、かなり苦労してここまでやってきたのだそうだ。妻と二人、子どもたちを育てる上での苦労、ケニアの現状に対する不安と期待、さまざまな話をして盛り上がっていた。

2008年05月28日

MISIAの本気アフリカ支援

 MISIAはかなり本気でした。

 TICADにあわせた、Africa Benefit Live Yokohama。アフリカンリズムを前面に出して、歌い上げる声は圧巻。なによりも彼女の本気が伝わってくる。

 久保田利伸とユッスー・ウンドールとの3人で歌ったOne Loveは、楽しくて、明るくて、なによりもメッセージが力強い。この歌は、ウガンダで義足づくりを続けている吉田真美さんとお連れ合いのルダシングワさんが大好きな歌で、2人がつくったNGOの名前にもなっているけれど、どうしてこうも、温かく人々を勇気づけるのだろう。
 
 MISIAは、ミレニアム開発目標MDGsについても、素朴に、自分の言葉でゆっくりと説明した。昨日はちょっと間違えたそうだけれど、今日はつっかえながら、でも8つの目標をきちんと説明した。
 そして歌った歌が、28日発売という「約束の翼」という歌。
 ラブ・バラードということになっているけれど、こうして聞いてみると、なんのことはない、そのまんまMDGs応援の歌なのだ。

 そして、2月に出たアルバムにも入っている「太陽のマライカ」。アフリカの場面のスライドをバックに、人と人とのつながりを、こんなにも明るく歌い上げて。マライカというのはスワヒリ語で天使という意味だそうで、通勤の車の中で何度も聞いていた曲なのだけれど、そう聞くと、こちらも人々の連帯の歌なのか、と得心がいった。

 希望は作り出せる。僕らは、その現場にいる。そんな幸せを思った。

 NGOである「ほっとけない」の招待の形で行かせてもらったので、コンサート後は少しだけ署名と寄付金を集めるのを手伝った。こうして自分自身がやっていることが、大きな世界とつながるのだという希望。NGOに関わっていてよかったと思う瞬間。
 まあ今回は、抽選だったというコンサートに関係者として入れてもらえたことが、一番よかったことだったけど。

 ちなみに、このコンサートは7月にNHKで放送されるらしい。
 そして、31日の朝日新聞でもMISIAが紹介されるのだそうだ。

2008年05月26日

People's TICAD

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TICADの市民版、People's TICAD。参加者は250人ぐらいかな。

2時間ちょっとしか時間がないのに話すべき人が十数人いるという状態で、司会の山中さん(P2共同代表)は大変。しかし、短い時間にいろいろなメッセージが詰まって、よくここまでという具合に意義のあるものだったとは思います。

 我が家に泊まっているフリーダさんは、ODAの60%が給与に使われているおかしさとか、一番たくさんの発言をしました。それももちろんよかったのだけれど、一番印象的だった発言は、タレントであるアドゴニーさんの、「日本に来たいアフリカの人にどうアドバイスするか」という質問への答。
 アドゴニーさんらしく、熱く、でもちょっと分からないところもある日本語で答えていたので、そのままではないのだけれど、次のような趣旨の話でした。
 
 アフリカはずっと、人々が自由に行き来するところだった。昔アフリカには、ポルトガル人もフランス人もイギリス人も自由に入ってきた。そして自由に人々を連れて行った。アフリカの中でも人々は国境なんてなくて、自由に動き回っていた。今だって、アフリカの人の8割は、他のところへ行くのにビザなどというものが必要だなんて知らない。アフリカ人はもともと、自由にどこだって行けた。
 ただ、現実的には何の準備もなく日本に来ても、なにもできない。だからまず、日本語を教えてあげてください。

 最後の部分は質問に対する答だから仕方ないけれど、この答はグローバリゼーションの本質をよく突いた答だと思いました。つまり、グローバリゼーションというのは世界が小さくなり、国境が低くなり、モノもお金も自由に行き来することができる動きだけれど、「途上国」の人々にとってはまったくそうではない。送り出すべきものもお金もないし、人の移動も、経済的にも法的にも大きな制限を受けている。勝手に線を引き、勝手なルールをつくり、勝手に自由を叫んでいるのは、まったくのところ「先進国」の一部の人々に過ぎないのだ・・・。
 
 ある意味では、支援するのだからとアフリカの人々を呼んで会議をやる、このTICADというものもまた、こちらの勝手なルール。しかも、これはフリーダさんも怒っているのだが、日本政府は公式に招待しているはずのNGO代表に、TICAD本会議の出席チケットを人数分も出さないという身勝手さ。これ以上の失礼はないというぐらいの、尊大さがにじみ出てしまった今回の対応でした。

 昨日日本に来たばかりで一日動き回っていたフリーダさんはさすがに疲れていたけれど、我が家で夕食を食べ、P2スタッフの中島さんと話し、妻ともアフリカの現状などいろいろ話して少し元気になったよう。
 妻も、とてもアトラクティブな人、と魅了されたようでした。

 

 

2008年05月25日

ケニアからの来客

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フリーダ・ムゴさん。Global Coalition Against Poverty(GCAP)という世界的な貧困削減ネットワークのケニア代表。

土曜日の夜10時に我が家に到着。ナイロビ―ドーハ―関西空港―羽田空港―横浜というロングトリップで、しかも明日(今日)の朝10時には神奈川県民ホールへ行って、午後のイベント「People's TICAD」の打ち合わせをしなければならないという、かなりの強行スケジュール。それが目的のひとつだから仕方ないけれど。
 でも、家族の話や4年間住んでいたというニューヨーク州イサカの話(コーネル大学で博士号までとられた)などで盛り上がりました。
 3人の子どもたちのうち下の2人は双子なのだそう。それがお連れ合いのキクユ族では素晴らしいことですごく祝福され、一方自分の部族では悪いことになっていて誰も祝ってくれなかった、とか。
 私の妻の名前Miyokoというのは、彼女の部族の言葉ではキャッサバ芋を意味する、とか。

 真夜中まで盛り上がりました。

 明日のイベントは面白そうなのだけれど、スピーカーが多すぎて、細切れの話になってしまうのは必至。外務省、世界銀行から朝日新聞、横浜商工会議所まで後援するという規模の大きさだから、しょうがないのだけれど。
 僕は特に関わっているわけではないので、フリーダさんを会場まで送ったら、・・・午後2時のスタートまで、・・・なにをしよう??

2008年05月24日

ボツワナの歌と踊り(八景島)

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 近づいてきたアフリカ開発会議(TICAD)。僕はこれにはあまり関わっていないが、共同代表の山中悦子さんがTICAD市民社会フォーラムメンバーとして東奔西走の活躍中。昨日新聞でも大々的に報じられていた「パス」問題でも、外務省に交渉に行っています。山中さん宅に滞在中のギュスターブ氏も各地で講演やインタビューなど大忙し。
 
 写真は、23日金曜日、八景島シーパラダイスで。ボツワナのパテ・ヤ・セツオというグループが踊り、歌ってくれていました。シーパラのTICAD協力キャンペーンの一環としてのものらしいけれど、残念ながら来場者にはちょっとキワモノ的なアトラクションのひとつにしか見えてない様子で、立ち止まる人も少ない。付き添ってきているボツワナ大使館の方も、残念がっていました。
 楽しげで、しかも見事に息が合っていて、すばらしいものだったのですが。
 ダンサーの方とも少し話したのだけれど、見事な英語で、日本のテクノロジーに改めて驚いた、けれどボツワナもいいところだから絶対来てみるべき、というような話をしてくれました。

 明日は我が家にもケニアからのゲストが宿泊予定です。
 
 

2008年05月23日

インド・山岳民族の保健衛生プロジェクト

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インド・オリッサ州での山岳少数民族プロジェクトです。
女性たちは、各村一人づつ出てもらっている「コミュニケーター」たち。定期的にセンターに来て、こうして講習を受けてそれを村に持ち帰ります。右側は講師を務めている医者です。

この時は、下痢の対処法を学んでいました。

ただ、各村から別のプロジェクトで来ている男性たちと会えるので、コミュニケーターたちは前の晩遅くまで踊り明かしていてほとんど徹夜、講習ではかなり眠そうでした。

 大事なこと、頭に入ってるのかなぁ・・・。

2008年05月22日

夏の高校教育会館講座

 毎年8月、神奈川県高校教育会館から委託を受けて、高校教員向けのワークショップセミナーをコーディネートしています。ネットワークを使って講師を依頼し、セミナーを組み立てていくのは、気を使うけれどかなり楽しい作業です。

 広報はまだやっていませんが、ほぼ次の陣容に決定!

 8/4 西あいさん(開発教育協会)
 8/5 白木朋子さん(ACE)
 8/6 中村絵乃さん(開発教育協会)
 8/7 浜田祐子さん(かながわ開発教育センター)
 8/8 佐藤友紀さん(開発教育協会大阪事務所)

「小野さん好みの女性ばっかりじゃない」と事務局長の石塚さんにからかわれたけれど、決してそういうわけではありません。たまたまです、たまたま。
 ただ、NGOや開発教育の世界では、女性がやたらに元気だというのも確かで、草の根援助運動のスタディツアーやセミナーでも、いつも女性の方が多く、圧倒されています。

 そういえば、これもたまたまですが、今回お願いしている講師には、共通点がひとつ。お一人を除いて、4人がアメリカかイギリス滞在の経験者。開発教育というものの特性とも言えるけれど、軽やかに世界を駆け巡る女性たちの生き生きとした活躍ぶりは、見ていてワクワク。8月のセミナーが楽しみです。
 あ、やっぱり僕の好みか。

2008年05月21日

国民総幸福は国民総充足ということらしい

 外務省が国民総幸福(GNH)をタイトルとしたシンポジウムを開いたのは2005年。ブータンが理念としていると言われるGNHが一躍脚光を浴びた年だった。

 はじめてGNHという言葉を聞いた人の誰もが思うのが、幸福というあいまいなものを、どうやって指標にするのだろう、ということ。その答があるのかと思った外務省のシンポジウムでも、指標化の話はごく軽く触れられただけで、ブータンの暮らしぶりの紹介が主になっていた。

 指標に近いものは、国連開発計画の人間開発指数や、レイチェスター大学の世界幸福地図などいろいろと考えられている。しかし、『ブータンに魅せられて』今枝由郎2008・岩波新書によれば、もともとGNHというのは、そうした指標化を意図したものではないらしい。今枝は、ブータン国王に謁見した折に聞いたこととして、次のように書いている。
 
「仏教国としては、経済発展が究極目標でないことは、経済基盤が必須であることと同様、自明のことである。そこで仏教国の究極目的として掲げたもの、それが「国民総幸福」である。」

「私が意図したことは、むしろ「充足」(contenendness)である。それは、ある目標に向かって努力する時、そしてそれが達成された時に、誰もが感じることである。この充足感を持てることが、人間にとってもっとも大切なことである。」

 これでは、指標化することはできないだろう。例えば物を所有することが幸福なのではなく、目標の達成こそが幸福、というのは理念的には受け入れられても、社会の目標とすることはむずかしいと感じられる。

 僕はフィリピンの漁村と「オルタナティブな開発」を研究する中で、一時この人々の充足感のようなものを調べようとして、挫折した。
 忙しいが心を失いつつある僕らと、経済的には貧しいがのんびりしたフィリピンの漁村の生活を比べると「フィリピンの方がいい」という漠然とした気分を仮説として考えていたのだが、数値化もできず、論文として成り立たない。これはやはり、一種の哲学になるからだ。

 でも、そういう社会がもう一度どこかに出現するかもしれない、という淡い期待はある。ありえない?・・・そうかもしれないけれど。ブータンは、どうなるのかな・・。

2008年05月20日

興味の持続がむずかしい生徒への開発教育

 newsの方でお知らせしているインドNGOスタッフを、勤務している高校でも呼ぶことにした。話を聞くのは苦手な生徒たちに、どうやって興味を持たせるか、これから思案のしどころ。
 
 最近考えている、「興味の持続がむずかしい生徒たちに対する開発教育」のいくつかのアイデア。

1 ワークショップは、その目的をきちんと説明しながら行う。
 生徒たちは、先生の指示を一方的に聞かされ動かされることにうんざりしている。これから何をするのか、今何のためにこんなことをしているのか、分からないままに動かされるのは、本来のワークショップの目指すところとは逆になる。
 きちんと説明すると、むしろきちんと対応してくれるものだ。

2 準備は十分に。
 これくらいは知っているだろう、という思い込みは、たいてい失敗する。根本的なところで、何が分からないのかを十分把握しておかないと、結局話が空回りするばかり。そして、ワークショップではちょっとした失敗が一気に生徒たちの興味を殺いでしまう。分かりのいい生徒たちを相手にするよりも、準備を周到にする必要がある。

3 発言をうまく吸い上げる。
 これはワークショップの基本ではあるけれど、何気なく言った一言の中に重要なヒントが隠されていることがとても多い。生徒の実感から言った言葉は、うまく拾い上げて次につなげるとお互いに満足感の多い授業ができる。

4 時間には十二分の余裕を持つ。
 作業や説明が不十分なままに進めると、結局分からなくなる。合間の雑談もとても大事。

・・・生徒たちにどう受け取ってもらえるか、楽しみ。

2008年05月19日

ブータンの近代化は

国民総幸福(GNH)が数年前話題になったブータンは、非常に興味深い国だ。

まず、入国がとてもむずかしい。現在はある程度受け入れるようになったものの、ぶらっと観光で歩き回れる国ではない。
 
99年まで、テレビ放送もなかった。今でも国の多くの人々は民族衣装を着て、ゆったりとしたペースで暮らしている。

2006年、国王が自ら退位を宣言、皇太子に国王位を譲った。しかも国王自らが民主制度を進める改革を打ち出している。

 この国がこれからどうなっていくのか。『ブータンに魅せられて』(今枝由郎/岩波新書)を読むと、人々はゆっくりと改革を受け入れながらも自分たちの価値観を大切にしていくように見える。

「今でも国民の大半が、男も女も各々「ゴ」および「キラ」という民族衣装がもっとも着やすく落ち着ける衣装だと感じており、それに愛着と誇りを持っている」(p.125)のだという。

 『ブータンにみる開発の概念』(上田晶子・明石書店)は、若者に焦点を当てているので、もう少し大きな変化が見て取れる。「実際問題、民族衣装をいつもいつも着るのは不便なこともあるというのは若者たちに共通の反応である」(p.261)と上田は書いている。

 ブータン初のDJジグメは、2002年、ブータン初のライブハウスを開いた。若者たちにクールな西洋文化をどんどん紹介したい、と彼は言っていた(NHK・BSドキュメンタリー「ブータン・青