公共性と私性

前回書いたことのゆるやかな続き。
教育学者の広田照幸は、「一元化や同化を求める『公共』観に対して、多様性や異質性によって成り立つ『公共』観を対置させる」ことを提唱している(『21世紀の社会と教育』2008、アドバンテージサーバー)。
たとえば冷戦時代にあったような一定の社会像や目標がなくなった今、いろいろなビジョンを考え、提出できるような市民の力こそが必要なのだ、と広田は言う。
広田によれば、教育基本法改正(改悪)反対運動の中で唱えられていた、国家による心の領域への侵害への反対、という図式には「ある種の狭さ」があった。「『私』を守った先にどういう社会の連帯や共同を描くのか」が、この反対運動では「どうもよくわからない」。
そのままでは、どうせみんな違うんだから勝手にやればよい、という価値相対主義とか、自分の回りの生活だけが大事だという私生活主義に陥ってしまう。そうではなくて、「具体的な国家観とか社会観とか人間観とかは、多様な可能性に向けてオープンにしておいて、そこの選択は個々人に委ねてしまう」ことが必要、ということだ。
60年代から最近まで、公的な介入を排除して私的な領域を守ることこそが、市民的自由を獲得する、ということだった。そこには、何であれ私的なものに対する公的な介入を防ぎたい、という意識があった。そうした「公的な介入」には、いわゆる官僚支配も含まれる。そこで、たとえば郵政民営化がむしろ左寄りから支持されるような現象も起きてきたのだ。
一方、それと対立するような「大きな政府」が、福祉政策を望む左翼と、公共政策を維持したい保守派との両方に支持されたりもする。市民的な自由を守るために公的なものを必要とするのかそうでないのか、決定的なビジョンはまだない。
それは端的に言えば、私的に儲ける自由の範囲が決まらない、ということ。もう少し過激な問い方をすれば、他者からの搾取の自由はどこまで私的な自由と言えるのか、ということだ。「金を儲けることのどこが悪い」と言った某社長の言葉は、ここを突いている。
このところ、さまざまな規制の復活が報道されてきている。公的な規制と私的な自由のバランスに、答はない。ちょうどいい支点を求めて、あっちへいったりこっちへいったり、揺れ動きながら探していくということになるのだろう。
ところで、写真は近くのスーパーで安くなっていたからと妻が買ってきたパパイヤ。パッケージにはただ「フィリピン産果実」とだけ書いてある。「果実」って。なんだか分からないで売ってるわけ??これには規制はないのか??
我が家では、苦い、臭いと不評だった。えー、熟していておいしいのに。ほとんど一人で食べました。


