2010年07月15日

熱海殺人事件

 1975年、早稲田の文学部に入学した僕は、退学一流、留年二流という教えを守ろうと、なるべく講義には出ずに街をふらふら。金も意気地も才能もないのに、結構あちこちのぞきまわっていました。
  
 早稲田なんだから、演劇にもはまらなくちゃ。そんな思いもあって、唐十郎の赤テントや鈴木忠志の早稲田小劇場などにも通い、そんな中でつかこうへい「熱海殺人事件」も観ました。

 赤テントの衝撃もすごかったけれど、赤テントは、いわば唐十郎が最初から仕掛けた衝撃をそのまま受け止めた衝撃。それに対して、「熱海殺人事件」の衝撃は、表現の底の底にある純粋なものに打たれての感動で、その印象はいわばトラウマのように、長いこと褪せずにむしろ僕を縛ってきたような気さえします。

  
 僕が観たのは初演のオリジナルキャスト、三浦洋一、平田満、加藤健一の組み合わせで、色々な方のブログを見てみると、75年の秋の舞台のようです。
 青山VAN99ホールという、文字通り99円で観られる当時としても破格に安い劇場で、VANというブランドをつくった石津謙介氏の社会的サロンのような施設だったようです。イヨネスコの演劇なんかもここで観たんじゃなかったかな。
 
 つか演劇について、扇田昭彦は「アイロニーのある、露悪的で苦い笑い」と書いていたけれど(朝日新聞2010-7-13)、僕はそういう風には感じませんでした。僕が感動したのは、何重にも積み重ねられた意匠の下の、無垢な叙情性でした。
 
 今さら正面に出すことなどできないような叙情的なものを、刑事がものすごいスピードで語るストーリーに犯人が合わせていくという仕組みの中で、少しずつ、少しずつ表現する。ほとんどなにもない舞台の向こうを見ながら平田満が語る言葉の中に、海が見えて、人々の心が見える。
 
 観てしばらくたった夜、思い出して一人で泣いた覚えがあります。泣いたのは、叙情性そのものにもあったのだけれど、むしろ、現代の表現の屈折さ加減にせつないものを感じていたのではなかったかな。
 当時小説を書こうとしていた僕は、全盛だったヌーボーロマンにも通じる、素直に書けないつらさを含んだ現代の表現というものに、時代の人々の苦しさを感じていた、ように思います。 
 
 ちなみに、僕は一流にはならなかったものの、二流にはなれました。それも、卒業の年にようやく優の数が二桁になるという成績で。それに苦しむことになるのは、かなり経ってから。
 
 退学一流、留年二流、卒業三流。誰が言ったのやら、それを素直にやろうとする青年には、本来無縁のフレーズですね、今考えれば。文学、というものにやられてたんだなぁ。早めに諦めて、よかったのかもしれないね。

2010年07月07日

違和感の正体

 今のアメリカへの違和感。それは、時代への違和感のような気がしてきた。
 
 一言で言えば、真面目できちんとした社会への違和感。
 
 僕は、スクエアだった世界が、そんなものは壊せ、エスタブリッシュメントを信じるな、と言われて劣勢に立たされるところを見てきた。60年代から80年代は、そういう時代だった。
 
 既存の価値観から自由に外に飛び出ることが大事で、生意気であることこそが存在意義だと思っていた。
 
 マイルスデイビスは、50年代にはスーツを着ていたけれど、その後はスーツは脱ぎ捨てて、パンツとシャツのファッションになった。
 ビルエバンスは、スーツから、ひげ面になった。
 根津甚八は、「スーツなんて生まれてから今まで着たことない」と言っていた。赤テントからメジャーになりかけていた頃のことですけれど。
 
 だから、そういうものだと思っていたのだ。
 
 ダーマ&グレッグというアメリカのTVドラマでは、アメリカの自由な家とエスタブリッシュメントの家のぶつかり合いが出てくる。ヒッピー家庭に育ったダーマと、金持ちビジネスマン家族の息子、グレッグ。そのカルチャーの違いが面白いコメディだったのだけれど、僕はアメリカではヒッピー家族寄りの家ばかり知っていたので、グレッグの家そのものが既に新鮮。だから、ダーマの家も古い意匠になりつつある、というのは僕にとって逆のカルチャーショックでもある。
 
 でも気付いてみたら、世の中は、とてもしっかりした世界になりつつある。みんな真面目に、正しいことを押し進める。きちんとした社会、きちんとした人々。いい加減さは許されない。
 
 僕はいい加減さを価値だと思ってここまで来たので、そうした価値観が、面倒でつらい。
 
 
 正しいことは正しい。反論の余地はない。そこから抜けるには?車谷長吉が朝日の人生相談に回答していた、「阿呆になることが一番よいのです」というのが答かな。
 真面目に、きちんと、自信を持って、正しい道を、進むこと。・・・からは、抜けていたいと思う、この頃。
 まあ、元からあまり入っているようには思えないけれどね。

2010年07月06日

どうしたんだアメリカ

この頃、僕が好きだったアメリカは、どこへ行ったんだろう、と思うことしきり。

 今、全米の公立学校の教師の10人に1人が、クビの危機にさらされている。理由は単純、経済的な危機だ。
 カリフォルニア州では増税案も住民投票で否決され、すでに33,000人がクビになった。
 さらに昨日のニュースでは、州職員の給与を最低賃金に引き上げるようシュワ知事が命じたという話も流れていた。
 
 テキサス州では、州カリキュラムの見直しで、「奴隷貿易」という言葉を削除して「三角貿易」という言葉を使うなどの超保守的テキストが準備されている。
 
 アリゾナ州では不法移民摘発のためとして、外見が外国人ならば警官は職務質問ができる、という州法が成立して、メキシコ系アメリカ人の憤激を買っている。
 
 アメリカにはマッカーシズムの時代もあったわけだし、ウルトラ保守の伝統というのもある。だからこんな状況も、あり得ることではある。それでも、豊かでおおらかなアメリカという夢を持っている僕にとっては、とても寂しいことだ。
 
 寂しいついでに、このところがっかりのアメリカをもっと列挙。
 カリブ海の原油流出は、エクソン・バルデスの流出量を3日で超えてしまうというすさまじさ。連日報道されているペンサコーラ海岸の惨状は、夢のリゾートの夢が破壊されていく寂しさだ。
 ニューヨークの公立学校からは、すでに95%でコーラが閉め出された。まあ、これはいいニュースともいえるのだけれど、でもアメリカといったらコーラでしょ。
 
 キティブーム、地下足袋ブーム、かわいいブーム、bentoブーム。やめてくれー、アメリカはセクシーでマッチョでブラウンバッグにピーナツバターサンドを入れるのがランチだったのに。
 
 
 僕が好きだったアメリカは、古くはジョン・ウェインで(保守的な部分はおいておくとして)、ヒッピー文化とハーレー・ダビッドソンで(ということは『イージーライダー』だ)、ビーチボーイズとモンキーズで、UCバークレイのリベラリズムとサインフランシスコのカウンターカルチャーで、ビートニクとゲイリー・スナイダーで、学生町チコで、『夢のカリフォルニア』で、スターウォーズとバーガーキングで、・・・・。
 
 夢が壊れていくのは、つらい。あの頃のみんな、どうしてるのかなぁ。
 

2010年04月05日

朝鮮初級学校・入学おめでとう応援隊

 朝鮮学校に通う子どもたちに対する襲撃事件が続いていた2003年、友人である地球の木の当時の代表Yさんや、現K-DECの事務局長Kさんらが始めたのが、この「入学おめでとう隊」です。
 
 http://bit.ly/aTTGTp
 
 僕は一度も行ったことなかったのだけれど、今回初めて、横浜の初級学校応援隊に娘と一緒に参加しました。
 
 予想通り、年齢は高め。娘が唯一の十代、二十代の人が多分一人、あとはみなある程度の年齢の人たち。それでも20人近くがオレンジ色ののぼりを立てて子どもたちを迎える、とてもいい感じです。
 おめでとう、と声をかける、ほとんどそれだけの活動なのですが、思った以上に学校の方々や保護者の方たちに歓迎されました
 
 敷地内では、制服を着た在校生の子たちが、みんな元気に校内を掃除しながら、こんにちは、と堂々とした挨拶。
 
 そうした中で、小さな子を抱いて玄関前に現れた若いオモニ(お母さん)は、僕らを見て涙ぐんでいます。
 近くにいたオモニ会の前会長さんが、「こんな風に迎えていただいて、と感激しているんですよ」と教えてくれました。

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 やがて入場してきた、緊張した、でも体いっぱいにやる気と元気をみなぎらせた1年生らと、それに劣らず誇りと緊張をみせる保護者たち。
 数えてみたら、新入生全員、両親とも参加しています。
 
 それを受け入れる側の学校もとても立派。凛とした、しかし暖かい感じの先生たち。在校生も先生方も、一人一人を心から祝福し、仲間として受け入れる感じが溢れています。
 暖かく、力強く。制度としてある「学校」ではなく、自分たちで一から作り上げている学校の、原点を見た感じがします。
 
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 粛々と、かつ生き生きと、式は進みます。新入生たちは明るくきれいな正面壇上にひとりづつ並ばされ、晴れがましくも相当に緊張する場面。
 一人の子はほとんど最後までお母さんから離れられずに泣きっぱなしでしたが、それはそれ、という感じで決して無理強いはされず、抱きついたままで教科書を受け取ったりというセレモニーをこなしていました。
 
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 最後は記念撮影。保護者たちとの撮影はもちろんですが、学校側の配慮で、新入生たちと、僕ら応援隊が一緒に写真を撮って終了しました。
 
 
 終了後の理事長やオモニ会の方々との懇談会では、娘が「『GO』で読んだ朝鮮学校はどちらかといえば怖い感じだったけれど、とても明るくて楽しい学校だと分かってよかった、子どもたちもかわいかったし、来年もまた参加したい」と挨拶して喝采を受けました。
 
 理事長からは、高校無償化問題について語られましたが、声高に権利を主張するのではなくて、とても困っている、と穏やかに語られました。
 すでに日系4世、5世のこの国で生きていく子どもたちが、朝鮮学校に来ると支援が受けられないというのは、日本の国力を削ぐことにもなりかねない。学校の中身が分からないと言われるが、朝鮮学校はいつでもオープンにしているし、ぜひ中身を見てほしい、ととても当然のお話。
 
 草の根援助運動でも声明を出しましたが、世界的に見てもあからさまなこんな人種差別政策がまかり通るのは、許せないことです。 
 ところで、オモニ会の前会長さんが言っておられたことがとても心に残りました。
 いわく、若いオモニたちは、子どもたちに万が一の危害はないだろうか、生活をどう支えていくか、毎日が戦いなのだ、とのこと。
 確かにそうでしょう。そうした日々の中で、ルーツを隠して地元の学校に入るのではなく、自分たちの文化を受け継いでいく朝鮮学校に入る、という決断は、戦いのひとつのピークでもあるのでしょう。
 
 だからこそ、それを応援する僕らに対して、思った以上の感謝を示されたのでしょう。
 
 帰り、なんだか心が満たされてうきうきの僕は、あしなが育英会の子どもたちに寄付して、駅前のぼろぼろのホームレスの方に弁当の差し入れをして、それからタワーレコードでCD7枚大人買いして、家路についたのでした。

2010年04月03日

フィリピンの南沙織

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 1970年代のアイドル・南沙織は、山口百恵や桜田淳子に先行するアイドル第一世代です。当時は小柳ルミ子、天地真理とセットでアイドル三人娘とされていたのですが、いやいや、全然違うぞ。かわいくて、爽やかで、知的な雰囲気がとても上品。
 
 youtubeで見始めたら、とまらなくなってしまいました。17歳の時もかわいいけれど、まっすぐに成長した引退間際の雰囲気、そして1992年にほんの少しだけテレビ出演した時のすてきな大人の女性らしさ。そして、なによりも暖かくて伸びやかな歌声。こんなに歌、うまかったんだ。
 
 
 沖縄出身の彼女は、デビュー当時は奄美出身ということになっていたそうです。しかもフィリピンとのハーフということになっていました。実際にはお母さんの再婚相手がフィリピン人だったそうですが、どうしてそういう風な出自に変えられていたのか、今考えるとかなり興味深い。
 
 僕は実感として経験したことはないけれど、金城宗和によれば、沖縄出身者差別というのは一部ではかなり強くあったそうです。しかも当時はまだ、沖縄返還前。その沖縄出身というのは、今では分からないけれど、アイドルとしてはマイナス要素になったのでしょう。

 一方、今では時に出稼ぎ者のイメージで語られてしまうフィリピンは、当時はエキゾチックなアメリカ文化の響きがあったのだろうと想像されます。それやこれやで奄美出身フィリピンハーフ、になっていたのではないかな。
 
 
 作家の大岡昇平が彼女をとても気に入っていて、1974年の『婦人公論』2月号で南沙織と対談しています。
 
 http://www.cynthiastreet.com/book/fujin.html
 
 その対談は残念ながらあまりかみ合っているとは思えないのだけれど、大岡昇平は「あなたのお父さんはフィリッピンの方でしょう。ぼくはフィリッピンへ、戦争で行って、その話ばかり書いてる。だからフィリッピンはぼくの守備範囲なんだよ」と言いながら、「かわいくってさ、スタイルもいいしね、顔もいいけど(笑)」などと大絶賛しています。
 64歳の大岡昇平が19歳の南沙織に懸命にしゃべっている姿は、どちらかといえば痛々しい感じもあるのだけれど、フィリピン、沖縄というキーワードに反応してしまう僕としては、対談できていいなぁ、と大作家大岡昇平を羨んでしまいます。もっとも当時、僕が17歳だったわけだけれど。
 
 最近では銀杏BOYZもカバーしているデビュー曲「17歳」が出たとき、僕は15歳。南沙織と同じようなストレートヘアのガールフレンドと生まれて初めてつきあっていた僕は、その彼女にもちょっと重ねて、「海辺のまぶしさ 息もできないくらい」というフレーズに、まさに息もできないくらいになっていました。
 
 自分の部屋に初めて張ったポスターは、当時とっていた「中学1年コース」についていた折り込み付録でした。日焼けした素肌がまぶしかった・・・。
 
  森高千里が「17歳」をカバーしたときに、南沙織バージョンがゆっくりとして古色蒼然とした感じにさえ感じられて寂しく思ったものでしたが、今になってみると、森高千里の方が時代性が強くて古くさい。南沙織はかなり普遍的な価値を持った楽曲になっていると感じます。 
 また出てきて歌ってくれないかなぁ。今井美樹のような、いろいろな世代に支持される歌手になると思うのだけれど・・・。

2010年03月28日

『マザーテレサと生きる』

東京都写真美術館ホールで上映中の「マザーテレサと生きる」。

http://www.motherteresa.co.jp/movie_07.html

千葉茂樹監督のマザーテレサ3部作の最新作で、昨年の作品だから、マザーテレサ自身はあまり出てきません。代わりにマザーテレサの愛を受け継いだ人たちの活動が描かれています。

 コルカタの通称「死にゆく人の家」でボランティアをする日本人たちの姿から、その参加者が山谷で開いたホスピスの様子へ。
 つらそう、と思えるボランティア仕事が本当にしあわせなものであることが、伝わります。山谷のホスピスのドキュメンタリーはテレビで見たことがあったけれど、映画として作られた本作は、その感情と人の幸福感が深く感じられます。
 人と心を通わせることの幸福。相手から感謝の言葉も様子もないとしても、それでも人になにかしてあげられることの幸福。
 
 ああ、そうか、と思いました。それが「無償の愛」か。無償の愛って、一番の恩恵は自分にある。無償の愛を捧げられる幸福感なんだ。
 
 映画の中で、マザーテレサの言葉としてこんなことが伝えられます。
 
 「恋は感情。愛は意志。だからたとえ敵でも愛すことができる。」言葉通りではないけれど、こんな意味のマザーテレサの言葉に、僕はうなずけます。
 
 僕は普段からキライな人がほとんどいないというお気楽な性格なのだけれど、これは多分、それがまさに「お気楽」なので自分でそうしているような気がする。たとえヘンな、自分に対してあからさまに嫌な顔をする人がいたとしても、でもホントはいい人なんだよなこの人、と思ってしまうことで、こっちはイヤでなくなる。イヤでなくなると、その人の態度にも平気になるし、平気になるとその人のホントの部分が見えてくる。
 
 妻にはときどき、僕が批評的でないことを指摘されます。そうなんだよな。なに食べてもおいしいし、どの映画も面白いし。意識的にやっているわけでもないのだけれど、そうであることって、毎日がとっても気楽。で、これって、無償の愛の入り口付近には、いるんじゃないかな?
 
 監督の千葉茂樹氏は、以前開発教育全国研究集会で、僕が「シネリテラシー」という分科会をやったときにリソースとして来ていただいた方。というよりも、その分科会そのものが、千葉監督ご自身の面白さに触発されてできた、という感じ。
 
 打ち合わせにうかがった日本映画学校で氏とお話したとき、僕は心から、こういう風に歳を重ねたい、と思ったものです。
 氏は現在70代後半なのだけれど、闊達で好奇心いっぱい、寛容さ、暖かさ、知見の深さ、単純に表現すれば瞳の輝きが青年のような、感性豊かな方でした。
 
 79年に日参してマザーテレサのドキュメンタリーの許可を取り、それから密着取材をしていったという監督。「マザーテレサに初めて会った時に、初めて会った感じがせずとても懐かしい感じがした」そうだけれど、僕にとって千葉監督ご自身がそういう方でした。
 
 
 映画を見終わったあと、娘が、とても介護の仕事がすばらしいと思えた、と言いました。僕も同じ感じを持ちました。
 
 ただ、あの映画全体にキリストの愛が通底している。映画の魔法にかかって自分もすべて受け入れていたのだけれど、クリスチャンでない人たち-僕を含めて-には、魔法が醒めると難しい部分がでてくるかもしれない、ともちょっと思いました。

2010年03月07日


草の根援助運動(P2)が進めている、マニラ湾の沿岸資源を守り、回復するプロジェクト。漁師たちが、自分たちの手で海を守る、それを支援するというところがポイントです。

その中心的な活動の一つが、禁漁区。
海上に、漁ができない禁漁区を決めて保護します。

P2プロジェクトでは、昨年11月に、カビテ州ナイクで約50ヘクタールを禁漁とする禁漁区プロジェクトが再スタートしました。

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「再」スタートというのは、この場所は2002年に一度禁漁区としたのですが、2006年の台風の際、困窮した漁師たちがそこで漁をし始めて、そのままなし崩しになってしまったという経緯から。ボランティアでこの禁漁区を守っていた漁師のラフィとローズの夫妻は、当時「悔しくて夫婦で大泣きした」といいます。でも、今はまた、二人が中心となって、海を守っています。

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昨年、日本の専門家2人に潜って見たもらった限りでは、それなりの可能性のある場所、との評価でした。

でも、うまくいけばいくほど、そこで密漁するメリットも増えます。海上なのでその取り締まりも大変。

ブイはどんなにきちんと設置しても、台風などがあると流れてしまうし、とにかく地元の漁師たちの理解と協力は絶対に必要。

プロジェクトでは、そうした広報活動と、特に若い漁師たちへのアピール、そして次世代リーダーの育成にも力を入れています。

2010年02月23日

マニラ湾プロジェクトについての論文執筆中

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論文を書いている。
 
 舞台はマニラ湾沿岸。80年代後半からの、NGOと現地の漁民組織の動きなどを追っている。

 最終的には、それぞれのプロジェクトを調べて、NGOがやってきた(やろうとしてきた)参加型プロジェクトの中身と意味を精査しよう、ということなのだけれど、今のところはその前段階。

 調べるといろいろな人がいろいろなことを書いているし、現地NGOの資料もいろいろあるし、それなりに漁師や組織リーダーたちにもインタビューしてきているので、資料には事欠かない。

 これをやっていて一番面白いのは、実は90年代半ばから関わりがあったのに、いろいろなことが分かっていなかった、ということ。そしてそれが、今になっていろいろ分かってくること。

 プロジェクトを始める前にすでに、マニラ湾沿岸コミュニティは訪れているし、1998年には、わが草の根援助運動としても関わり始め、2000年代前半には、それなりのプロジェクトを展開した。
 その全体の中での位置づけが、こうして調べていて、あ、あれってこのことだったのか、という風に見えてくる。
 経験が資料の中でつながってくる。たとえば古い映画を見ていたら「あれ??こんなところに我が家が映ってる!」みたいな感じ。

 話が飛んでるけれど、これは植木等の64年の映画『日本一のホラ吹き男』の話で、最近テレビで見ていたら、なんとラストシーンで向こうの方(といってもずっと遠く)に実家が映っていたのだ。

 それともう一つ、ようやく分かってきて面白いこと。

 たくさん資料を集めたので、一時は多すぎて途方に暮れた。でも、読み込んでいくと、書いてあることはかなり重なっている。それをたどっていくと、なあんだ、元の資料はそれほど多くない、ということが分かってきた。
 そうなってくると、あ、ここでもこんなこと書いてるけど、元ネタはあれだよな、という見当がついてきて、なんだかそのあたりが見えてきた感じがする。

 思い出してみると、古くは(すごく古い)受験勉強がそうだった。断片的な知識がつながりはじめると、面白くてしょうがなくなる。全体像が見えてくるまでには、どうしてもその前に一定のモガモガあがく時間が必要なんだろうな。

 空手では、未だにモガモガしているような気がしますが。

 ちなみに、先週土曜日の練習で、回し蹴りが相手と宙で重なって、ねんざ。
 左足をテーピングして、足を引きずって歩いています・・・。

2010年02月20日

使うべき?しまっとくべき?5枚の皿

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きょう届いた5枚の皿。

 高橋悟という陶芸家の作品で、先週あるアトリエで開かれた個人展で買ったものです。

 高橋悟氏、実は次男が小学校の時にお世話になった担任の先生でした。
 どうにも落ち着かず、自信が持てず、ワイルドなだけだった次男が、ものすごく成長した2年間。本人はあまり気づいていないようなのだけれど、親としては、よくぞ育ててくれたと感謝一杯の先生です。

 まだ低学年だった娘も、おにいちゃんの担任の先生が大好きで、教わったこともなかったのに、転任式で贈る言葉と花束贈呈を志願しました。

 数年後、学校をやめて陶芸窯を開いたという先生。陶芸教室の傍ら実績もそれなりに積み重ねて、今や立派な陶芸家です。

 そこで、展覧会のお知らせをいただいて、そこで購入してきたというわけ。

 とてもきれいな、でもあくまで実用の陶器です。

 これを、どうするか。絶対壊すからしまっておこう、と言っているのが妻。壊れてもいいから、毎日使おう、と言うのが僕。
 結論は未だ出ず。

 写真ではちょっと出ていないけれど、とてもきれいな青緑の皿です。

値段は1枚1万円。さて、どうするべき??

2010年02月16日

We Are the World

25年前、最初のWe Are the World。アメリカから帰ってまだ間もない頃で、「途上国」との関わりもなにもなかった。
あれから自分のスタンスはずいぶん変わった。いろいろなことが分かってきたし、自分なりに活動の幅も広げた。援助、について言うべきことはたくさんある。

でも、このビデオは、25年前以上に、熱く、暖かくなる。
まずはここからだ。これが人間の希望だ、と思う。


草の根援助運動が参加する「かながわ復興支援ネットワーク」でも、こういうのをやっています。映画は終わったけれど、募金はまだ受付中。

http://ynn-ngo.sakura.ne.jp/modules/tinyd7/

世界には、問題はたくさん、でも優しいまなざしもたくさん。それが大事なことだし、支援でもある。

「人って『誰か見ていてくれる人がいる』と思えたらがんばれるし、楽しめるんじゃないかな」村松俊亮ソニーミュージックレコーズ社長 朝日新聞 2010-2-13

(形ある支援も、もちろんよろしく)


2010年02月10日

参加型、とは

参加型開発、というのは、基本的には、受益者である当事者たちが自ら参加してやる、ということ。
この参加には、有名なロジャー・ハートの参加のはしごというのがあって、8段階のどこまで参加している(またはさせている)かという目安になっている。

この参加型の大前提は、当事者たちがその気になっていること。

これがとてもむずかしい。
青年海外協力隊の青年らが苦労するのもここが大きい。当事者たちにその気になってほしくて一生懸命やると、実は、「あの隊員、遠くから来てがんばっているから、助けてあげよう」という善意の参加になっていたりする。


人は日々のルーティーンに忙殺されて生きていくもの。その中で、それ以外の活動に「参加」する余裕がある人は、そう多くはない。


これを教育にあてはめてみる。

教育は、本来、受ける側=生徒、学生の自発性で成り立つ。でも、そうである場合の方が少ない。つまりほとんどの場合、教育現場は「参加型」にはなっていない。

支援者=教師は、その場合、どこまでそれを生徒の責任だと言えるのか?どこまで尻をたたいてやらせるべきなのか?

高校生にもなって、本人がやる気をみせないのならば、もうどうしようもない。そう思うときもある。いろいろなことで追いつめられて、この状況でもやる気が出せない生徒に、教師としてしてやるべきことはない、と思う。

でも、その、やる気の出せない状況や環境は、もともと本人の責任でつくってきたものでもない。

というよりも、そもそも本人の責任なんて、問えるのか?人間って、そういう責任の問える存在として在るのか?社会の中で、結局のところ、社会内存在としてしか生きられないのではないか?だとしたら叱咤激励して無理矢理なんとかさせていくのも、また教師の責任か?


参加型開発に戻る。

日々の生活の糧を得る活動の中で、善意と意志と気力と能力で、別の次元の活動をしようとするリーダーたち。僕が尊敬してやまない、そんなリーダーたちがいたら、それを支援するのが、多分、草の根援助運動のような小さなNGOの使命であり、できることだ。

「参加型」でない開発なんて、そもそもそんな大それた事をする資格が僕らにはない。その意味では、それは「参加型開発」ではなくて、土地の人々の進もうとする意志なのであって、僕らはそれを友人として手伝わせてもらうというだけのことだ。

そうして前に進んでいこうとする人々を助けられるのは、とてもうれしい。NGOワーカーとしても、教師としても。

さて、前に進んでいこうとしない人々には・・・。

うーむ。

2010年02月06日

NGOの撤退

 きちんとしたNGOは、援助計画に撤退期を組み入れる。だらだらした援助は、依存体質をつくってしまう。誰かがなにかやってくれる、という意識が根付く前に、住民の自立の可能性を見極めて、あとはすべてを住民に委ねて去っていくのだ。

 エントリー>活動>撤退 で10年のサイクル、というのがわがパートナーNGOであるフィリピンのPRRMでも、基本となっている。
 
 でも、実際には、NGOは簡単には撤退できない。
 撤退した(と思われた)ためにうまくいかなくなってしまった例がいくつもある。
 その一つの例が、僕らのプロジェクト地であるマニラ湾東側の、サンタメルセデス。

2000年から2003年まで、僕らはプロジェクトを実施した。そして、突然終了した。

 資金が続かなくなったからだけれど、住民組織もしっかりできていたし、なんとかなると思った。

 でも、住民-漁民の意識はちがっていた。
 NGOがこなくなった、見捨てられた、と感じたという。
 
 実際には、その後も関係者はなんども訪れている。ただ、2003年までのプロジェクトの担当者は、プロジェクトでの雇用関係もなくなったので、当然行かなくなった。
 それが、住民たちにとっては、見捨てられた、と思ったというわけだ。
 
 そこで、NGOは撤退はできない、というのが僕の結論。プロジェクトの終了とNGOの撤退は違う。プロジェクトは終了してもいいが、NGOは関わり続ける必要がある。そして、この場合のNGOというのは、組織だけでなく、実際には「人」なのだ。

 
 そして関わり続けるNGOのやるべきことの一つが、世代交代に関わるところだ。
 NGO側も、組織側も人は歳をとり、若い者が次に出てくる。その引き継ぎをスムーズにすることが、大事な仕事になる。
 
 実際には、ぶらぶらとその土地に行き、人々と話し、状況を聞いて回るだけでいい。NGOが見てくれている、何かあったら相談に乗ってくれる人がいる、という意識が活動する住民組織への大きな支援となる。若い村民や若い組織メンバーには、そうしたNGOからの支援者がいるということ自体が、大きな支援になる。
 
 そして、その中から若者たちがなにかを求めてきたら、それはまた、援助プロジェクトの始動につながる。

2010年01月31日

住民組織の次世代育成


 住民組織は活動する組織だ。直面する問題にしっかり対処して行動する。フィリピンの現場で、僕らはそういう活発な住民組織(フィリピンの場合PO(People's Organization)と呼ばれる)をたくさん見てきた。NGOにとって、しっかりしたPOができるかどうかがプロジェクトの鍵になる。今マニラ湾で進めているプロジェクトが組織づくりのための研修を重視しているのはそのためだ。
 
 そしてしっかりした住民組織には、必ずしっかりしたリーダーが存在する。いつでも活動の先頭に立ち、準備から片付けまですべてをもっとも手間暇かけて行う、そういうリーダー。誰よりも汗をかく人。それが、住民組織のリーダーだ。
 
 ところが、そこにひとつの落とし穴がある、と最近僕は思うようになった。それは、そういうリーダーはしばしば、次世代を育てられない、ということだ。
 これは会社でも同じで、カリスマ社長は次のリーダーの育成にしばしば失敗する。ユニクロも、スタジオジブリも、自らが傑出したリーダーでありすぎるばかりに、次世代が育てられていない。

 それでも、会社組織ならば、次世代育成というのを重点課題とした部署や時期を持つことができる。
 住民組織にはそれは無理だ。当面の活動を行っていくという使命を本業とはべつのところで行わなくてはならない、そういう住民組織リーダーには、そこまでのことはなかなかできない。
 
 では、どうするか。
 そこで重要になるのが、外部の働きかけだ。
 
(この項続く)

2010年01月29日

教育の社会的意義

詳しくは書けないけれど・・・

家庭的な状況や、いままでの生活の状況など考えると、よくここまでやってきたよな、と思うような生徒。

やっぱりやめちゃうんだよなぁ。もうちょっとがんばればいいのに。

でも、ここで「がんばる」ことの大きな意味が、今ひとつ示せないもどかしさ。なにしろ卒業しても、4割が就職できない状況だ。

一方、ここで「がんばらない」ことが、今の日本のあり方の中では、まちがいなく大きな扉を自分で閉ざす行為ではある。

本田由紀『教育の職業的意義』、かつては著者が最初に反論している通り、教育の意義というのはもう少し長期的かつ抽象的なもの、と考えていた。
でも今は、それ以前に必要なことがある、とは思う。とにかく、今の社会、スタートラインに立つ以前に格差と障害が多すぎる。そこまで連れて行くことは、やはり教育の意義ではある。

『今のキャリア教育は、生徒が「勤労観・職業観」や「意志決定能力」「将来設計能力」を持たねばならない、という要求そのものは、学校や教師から生徒に対して確実に伝えられている。』
『そうした「よきもの」を持たねばならないという要請は、それらを実際に持てるようになることを、なんら保障しはしない。むしろ逆に、手段・方法を欠いた要請のみが突きつけられることは、若者にとっては混乱と困惑を増大させる方向に働きがちである。』p.148

今、がんばって学校にいることが、社会の自分の場所を確保できる手段を手に入れることにならない、そう思った生徒は、もういいや、と辞めていってしまう。それでもきっと、あとで後悔するんだけど・・・。

2010年01月28日

ハイチ地震の授業

勤務する高校で、ハイチの地震について、授業で扱ってみました。


本年度、楽しくいろいろな人たちと交流しながら料理を楽しむことを目的とした「クッキング・アラカルト」という選択講座を作りました。
年間10組の外部講師に来てもらい、毎週いろいろな料理を作ります。

この講座の2番目の目的は"Think Globally, act locally"。

学校出入りのパン屋さんから、地元の町内会の人にお願いした郷土料理、JICA研修員と一緒に作る寿司、ケニヤ料理、ガーナ料理、などいろいろと取り入れて、開発教育的な視点を中に入れていきます。

その講師のお一人が、昨年6月に来ていただいた、ハイチ出身の吉田カリンさんでした。

そこで、今日の1時間の授業で、次のように進めました。


1 講師である吉田カリンさんと彼女の関係するNGOが心を痛めているという
1/14の新聞記事を読み、疑問を提出

2 それに対する答を生徒から、分からないものは教師から。
何人亡くなっているか、などは答えられる生徒がいました。援助はどうやって届けるのか、などいい疑問も出ました。

3 開発教育協会が急遽出したGlobal Expressという教材のアクティビティ4を使い、援助実績についての自分の予想答と実際の答の違いをみて、意外だったこと、分かったことを書く

ちょうど昨日日本政府が追加支援策を発表したので、タイムリーでした。ハイチとその国の関係などを解説するのにもいい題材でした。

http://www.dear.or.jp/ge/download.html

3 「養子縁組」についてのニュースを読んで、感想を提出する

このイシューは正答がないという点で開発教材向きです。
賛成反対、両論が出てきて面白くできました。ディベートなどできる学校だったら、さらに白熱するでしょう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100122-00000587-san-int

この記事は批判的な視点なので、時間があれば、そうでないものと組み合わせるとより面白くできると思います。

2010年01月08日

Mixi,facebook,Twitter(それにWAYNとFlickr)


 今入っているSNSは、MixiとFacebook,それに横浜ローカルの「ハマっち!」。この1ヶ月ほど、twitterもやっています。

 当然ながら、そんなに時間をかけているわけにもいかないので、それぞれほんの少しずつ。でも、それぞれ自分なりに使い分けています。
 
 
 職場関連の同僚やかつての生徒たちはMixi。

 Facebookは英語のみで、もっぱらフィリピンの人たちとの交流に使っています。現地NGO「PRRM」のスタッフや元スタッフらがみな入っているので、これも楽しい交流です。
 
 横浜周辺のNGO関係の話はハマっちで。
 
 Twitterは、まだ身近にやっている人が少ないのですが、いろいろなところで活動している人たちの断片的な情報を拾うのが、結構面白く有益です。Mixiほどにコミュニケーション的ではなくて、まさに「つぶやき」の連鎖となっている点が、SNSよりも気楽。
 
 もうひとつありました。Skypeを入れているので、普段の電話代わりの他に、アメリカ在住30年の友人との交友に使います。
 今オハイオに住んでいる友人とは、月に1,2度、お互いの顔を見ながら、近況などを話し合っています。
 ちょうど今かかってきて、僕も訪れたことのある彼の家の庭に一面雪が降っているようすを見せてくれました。
 
 
 こうしたネットワークは、「自分が今ここにいること」を希薄にする、と言っていた人がいますが、僕はそれ以上に、自分がたくさんの人の頭で考えている、という感覚を強くします。
 
 知識について言えば、すでにかなりの部分でパソコンとインターネットが自分の脳内の知識の代用をしている感じがします。思い出せないこと、あいまいなことをその場で探せるというのは、本で調べるのとは明らかに違った、近く早い知能です。
 
 そして、感覚的な言葉と断片的な知恵が、次々に入ってくるTwetterについて言えば、脳内のニューロンがそのまま外に延びている感覚。自分が大きな脳の一部になった感覚と、その脳をまた、自分のものとしている感覚もあります。
 
 こうした社会では、パブリックとプライベートの境が曖昧になっていきます。そして、そのままグローバルな大きさへもつながっていくように思います。
 
 広井良典は、
1 食料生産はローカル~ナショナルレベル
2 工業製品やエネルギーはナショナル~リージョナルレベル
3 情報の生産・消費はグローバル
4 時間の消費はローカル
という形の経済活動を今後のひとつのかたちとして提出していますが(広井「グローバル定常化社会」)、情報に関しては、グローバルというだけではない、ローカルにもある、ナショナルにもある、それぞれの形態を複合的に使っていく、それこそユビキタスなあり方と考える方が正しいのではないかと感じています。

 あ、最後のWAYNは、面白そうなのだけれど、アカウントを持っているだけで使っていません。ついでにFlickrも。1日が48時間ない限り、それは無理ですね。

2009年12月26日

センチメンタルな旅・大井町

 午後休みをとって、妻と東京都写真美術館へ。木村伊兵衛とブレッソンを観る計画・・・だったのだけれど、急遽大井町で降りて、昔住んでいたところを訪ね歩く旅に変わってしまいました。
 
 昨晩は3人の子どもたちもそれぞれだったので、二人だけのクリスマスイブ。二人だけというのは、多分、アメリカの最初の年、81年のイブ以来初めてのこと。
 
 そんなこんなで、ちょっと感傷的になっていたのかもしれません。
 
 いつも買い物をしていた店などをチェックしながら、結婚当初住んでいたアパートのあたりに行ってみました。鉄筋3階建ながら風呂なし、トイレ共同という変なアパートだったのですが、当時は友人たちが入れ替わり立ち替わり泊まっていったものです。
 
 すぐ裏がバイパス道路になったのは知っていたのでてっきりなくなったと思っていたのだけれど、意外なことに、建て替えられてはいたものの、よく似たたたずまいで同じところにありました。廊下にある「静かに共同で住もう」という注意書きも同じで、大家さんも変わってないようです。
 使っていた銭湯は、場所がよく分からないながら、確かここだ、という場所を発見、近くの人に聞いたらその通り、大当たりでした。妻はまったく分からなかったようだけれど。
 
 そして一番のびっくりは、そのもっと前、大学生だった僕が住んでいた、木造モルタル、六畳一間のアパートが、そのまま建っていたことでした。なにしろ今から三十年以上前で、その頃すでに、安いけれど古くさい建物だったのです。
 玄関の引き戸がアルミに変わっていたり、廊下の板が張り替えられていたりというのはあったけれど、基本はまったく変わっていず。
  
 懐かしいというよりは、とにかくびっくり。今でもあるんだ、こんなアパートが。当時家賃が2万2千円だったのだけれど、今はいくらなのかな?
 
 アルバイトをしていた運送会社の事務所は見つからず。一方妻がアルバイトをしていた駅前のビジネスホテルは、カウンターも、その後ろのキーをかける板もおんなじでした。
 
 
 あの頃の未来に、僕は立っているのかな?
 
 うまくいっていることもあり、いかないこともあり。夜空のむこうには、もう明日が待っています。

2009年12月13日

映画「ワンピース ストロングワールド」

 小田栄一郎原作のマンガ「ワンピース」。
 マンガ版は大好きで、コミックスが出る日はそわそわと買ってきて、娘や息子たち(17歳・21歳・25歳)と争って読みます。
 雑誌(少年ジャンプ)では読まないので、ジャンプが出る月曜日には、朝のHRで「先生、すごいよ、今週は「白ひげ」がね・・・」「言うな~!」というお約束が毎週生徒との間で交わされます。
 
 テレビアニメも見てないし、今回10本目だというのですが今まで映画版アニメも観たことなかったのですが、今回は敬愛する小田栄一郎が自分で総指揮したというので、娘と見に行きました。

 つまらなかった。

 「ワンピース」のすごさは、なによりもそのがっちりした世界観にあります。それぞれの登場人物の歴史の深さ、そうしたバックストーリーに裏打ちされた伏線の数々が、あ、これがあれだったのか、という別の楽しみを作っていて、かつて小説家を目指したこともある僕としては、こんなストーリー作りをする人がいるのではとても敵わない、とひたすら脱帽。

 その「ワンピース」の面白さが今回はまるっきり消えてしまっていました。
 ストーリー展開は今までに使った話の焼き直し的なものが多いし、敵役のキャラクターは平面的だし、ひねりもなにもない。台詞すら、今までに使ったものそのまま。

 メインストーリーとは別、というスペシャルな舞台だということを、計り違えたように思います。・・・というより、ストーリーと平行して進む映画はむずかしい。作者は手を出すべきではなかった、ということかな。

 この冬は、あとは「のだめカンタービレ」だな・・。

アメリカは好きだけど

 僕は今でもアメリカが好きです。
 これは、二十代の2年間を過ごした思い出のせい。その前からの思い入れと、その後の記憶と、・・・海外で行きたいところはたくさんあるけれど、特にフィリピンの漁村は好きな場所だけれど、・・・でも、アメリカ好き。

 ではあるけれど、「辺野古に早く決めなければ日米関係は悪化」という報道の仕方には納得がいきません。それほどにアメリカのいうことを聞く必要があるのか。そもそも、日米関係が悪化したとして、今の日本にどれほどの不利益があるのか。
 
 そもそも、日米関係の悪化を言っているのはアメリカの現政権筋でしかなくて、しかもそれは単なる脅し文句でしかない。というのも、今日米関係が「悪化」したとして、それで現実的な不利益はほとんどあり得ないからです。

 現在の日米の経済関係の中で政府が果たす役割は非常に小さくなっています。そもそも自由貿易を標榜するアメリカで、それが実際のところ建前であるにしても、それほどに政府が力を発揮できる状況に今はありません。Buy Americaキャンペーンをやっていた20年前と状況は違います。

 そして政治関係で見ると、フィリピンがいい例です。フィリピンは90年代前半、強まるピープルパワーによって、ついにアメリカ軍基地を追い出してしまいました。
 フィリピンのアメリカ好きはつとに有名で、ある調査ではフィリピン人の60%近くが「フィリピンがアメリカの51番目の州になることを歓迎する」と答えていました。
 そのフィリピンが、アメリカ軍を追い出し、その結果アメリカとの関係はこじれたか?ほとんどそういうことは起きませんでした。

 また、現在の、たとえば北朝鮮問題を安全保障の問題として考えた場合、アメリカ追従がベストでしょうか?むしろ、中国追従の方が合理的な選択とはいえないでしょうか。経済的にも、軍事的にも、政治的にもますます大きなパワーを持つようになった中国に仲裁を頼む方が、遠くアメリカからオバマが助けに来てくれると考えて待つことよりもはるかに現実的な対処法だと思います。

 日本の政権が、交代した。それにより、日本は今までの約束には縛られず、独自の政策をとる。それを堂々と主張するのが、現政権の仕事であり、権利でもあります。

 辺野古問題でアメリカ追従する必要はない。

 辺野古の近くに大好きな宿をもち、大好きな人々をもっている者として、あの海に基地は許せません。

2009年12月04日

若者たちはすごい

 今週は二回、大学で授業をやらせてもらいました。

 三重大学は、大学院修士で一緒だったYさんの2講座。フィリピンへ行って援助の基本を考えるというワークショップを中心にしました。
 国際センター所属の科目なので、すべて英語です。英語でディスカッションになるので、学生たちなかなか苦戦していましたが、うまく議論になるポイントが出てきて、さすがに興味を持って来てくれた学生たちです。社会人院生の方もとても熱心にやってくださり、その方を含めて2講座連続で出てくれた人も3人もいて、うれしいかぎりでした。


 立教は、わが草の根援助運動事務局長の古澤さんが持っている講座。「非営利組織論」という講座なのでNGOのヴィジョンとミッションというような話をしました。無理矢理質問させたり、お互いに話し合ってもらったりしたけれど、よく考えてくれました。

 どちらでやっても、今時の若者たちのとにかく立派なこと。理解も的確だし、よく考えているし、すごいなあ。
 こんな若者たちが、きちんと夢を追い求めていける社会にしないといけない。それができない社会は、自滅していくんだろうな。そうでない社会を、追い求めたいものです。

2009年10月22日

福祉大でワークショップ

 名古屋の日本福祉大で一日講義。
  
 余語先生の「福祉開発」の午前と午後の2つの枠で、「問題の発見と解決」をテーマに与えられたので、ワークショップを中心とした組み立てにしました。

 前日夜出て、名鉄半田駅近くのホテルに泊。キャンパスまでは余語先生の車で連れて行っていただきました。


 前半は、「援助する前に考えよう」という、開発教育協会が出したものを自分バージョンにしたワーク。

 ネタバレになるので詳しくは書けないけれど、フィリピンを舞台に、一番基本的なところで、援助してほしい、という希望に対してどうするか、というようなことを相談しあいます。
 スライドを使い、音楽を流して、バロンタガログも持ち込んだり早く来ていた学生に密かに役割を振っておいたり、ちょっとした演劇仕立てが楽しい。
 本来この科目をとっていないという学生や事務の方も見えて、みんな生き生きと参加してくれました。

 午後は、短いビデオを見て、そこから問題点を発見して整理するというワーク。オーソドックスなKJ法を使ったのですが、ビデオの音声が出ないというアクシデントはあったものの、学生たちはみな積極的に参加してくれて、こちらもいいワークになりました。

 尊敬する余語先生と一緒に過ごすこともできて、実に楽しい一日でした。
 来年も、と声をかけられました。

 ちなみに、職場にはきちんと届けを出して許可も得ています。ねんのため。
 
 

2009年09月27日

フィリピンの漁師

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カ・アトン

 フィリピンの首都マニラから、バスで約3時間。バターン州オリオン町のカプニタン村は、草の根援助運動にとって最もなじみ深い漁村です。
 今もまた沿岸資源回復プロジェクトを進めているこの村に、現地パートナーNGO「PRRM」が入ったのがほぼ20年前。草の根援助運動も、その直後から繰り返し訪問し、毎年のスタディツアーでは、この村にホームスティするのがひとつのハイライトになっています。

 そのカプニタン村の漁民組織「サマカ」の代表がカ・アトンです。

 「カ」というのは、「~さん」のような敬称で、「アトン」はミドルネーム。そのカ・アトンは、1940年にカプニタン村で生まれました。

 お父さんも漁師だったけれど、両親は小さい頃に別れてしまっていたので、お父さんから漁を教わったわけではない、とアトンは言います。 小学校を卒業した年、母方の叔父に誘われて漁を始めました。ハイスクールに進む気はなかったのか聞くと、彼はこう答えました。
 「もし学校に行きたいと言っていたら、そうだなぁ・・・。でも学校に行くより漁に出たかったね。なにしろ、海には魚がたくさんいたんだから。」

 でも、その頃は大漁の時だけ現金をもらい、普段は現物の魚をもらって帰るという働き方で、せいぜい米を買うぐらいのお金しか手に入らない。
 そこで、身体もできて一人前になってきた17歳の年、商業漁船に乗り込みました。アトンは、スービック、オロンガポ、ビコールといったルソン島南部の各地に移動しながら潜水漁を行います。
 
 ナボタスで漁をしていたある日。同じ漁船に乗っていた仲間が、「アトン、お前の父さんがあそこにいるぜ」と叫びました。「どれ?いや、違うだろ」「おーい、これがお前の息子だぜ」

 そこで初めて父親に対面して、お互いに抱き合い、とてもうれしかった、とアトンは言います。

 「うれしかったさ。父がいなければ自分は生まれなかったわけで、その父と初めて会ったんだから。そのあと父はカプニタンに戻ってきて、また一緒に暮らすようになったんだ。」

 2年間である程度のお金をつくり、19歳で地元に戻り、20歳の時に同じカプニタン村に住んでいたイロカノ出身の女性と結婚しました。

 8人生まれた子どものうち2人は小さいうちに亡くなったけれど、あとの6人は無事に育ちました。5男1女の全員がハイスクールを卒業し、末の双子の男の子たちはそれぞれ電気関係の専門学校とカレッジを卒業してエネルギー関連の会社と石油関連会社で働いています。

 漁師になった三男は、今はサウジアラビアに出稼ぎ中。フィリピンではごく普通のことですが、経済的には余裕ができているようです。

(この項つづく)

2009年09月05日

個人のアイデンティティ

ある中学校で、教員対象の研修のファシリテーターをやりました。
人権研修という、学校では年1回はやることを義務づけられているものです。

外国につながる生徒が多い学校だと聞いていたので、ベトナム人のビンくんをテーマとした「ビンくんになにが起きたのか」というワークショップにしました。これは、ある日学校に来なくなってしまったベトナム難民の子どもビンくんをめぐって、先生が周囲の人々に話を聞いて回り、それを元にどこから解決していくかを話し合う、というものです。

 僕としては、当然そうした事例がたくさんあるだろうから、それを出してもらって話し合うきっかけとしたい、と思っていたのですが・・・。

 ワークショップとしてはそれなりにいいものになったとは思います。でも、参加した教員たちの話を聞いていて、僕が思い描いていたのとは少し違う実態が見えてきました。

 それは、教員たちが、生徒の出自やら国籍やらの問題に、あまり踏み込んでいない、ということです。

 ビンくんのような生徒が必ずしもマイノリティではないという事情は大きいと思いますが、教員は、結果として出てくる生徒たちの無気力、あるいは問題行動というものに対処しようとしているだけで、その底にあるものにはあまり関わっていない。
 
 ある教員は、「アイデンティティの問題などを持っている生徒は深く考えている生徒だが、多くの生徒はそれ以前の状況」という趣旨のことを発言しました。
 それは多分そうなのだろうと思います。自分は「なに人」なのだ、という問いは簡単に出てくる問いではありません。
 ただ、無気力だったり問題行動があったりという生徒の底に、その、まだ自分で分かっていないアイデンティティの問題があると思うのですが、そこまで踏み込んでいない。


 生徒や家族のプライバシーに入り込んではいけない、というのが今の多くの教員のスタンスです。
 また、国籍や人種といった問題は、教師には入り込めない深い闇、という認識もあります。

 でも、少なくとも国籍問題に関しては、実は簡単に入り込める、闇でも何でもない「個性」なのです。

 
 以前、川崎ふれあい館のKさんと話していて意気投合したことがありました。それは、「国籍は隠すべき個人情報などではない」ということです。

 国籍は、うかつに聞いてはいけない、公表してはいけない情報としてしばしば扱われるのだけれど、そんなものではない。人の顔と同じような、その人の当然の基礎情報で、相手を理解しようとすれば必然的に聞いていいものです。

 僕の経験では、「お母さんフィリピン人なんだって?」と聞かれていやがる生徒はいません。喜んでいろいろと話してくれます。もしもいやがる生徒がいたとしたら、それこそが解決するべき大問題でしょう。

 
 人種ジョークが言えるのは、そこにこだわっていない証拠、という了解がアメリカにはあります。
 日本ではまだ、そういう状況にはほど遠い、というのが印象でした。

2009年08月28日

フィリピンで12日間

 フィリピンのおしゃれなカフェにいます。
 
 毎度のことながら、漁村に泊まり込んで電気も水道もない生活をしたあとでこういうところにくると、今どこにいるのだか、わけが分からなくなってきます。
 ここは、私立大学のそばのスポーツクラブに併設されているラウンジで、来ている人たちもビューティフルピープルばかり。すぐそこのテーブルで屈託なく笑っている女の子たちの、色の白いこと。着ているものといい態度といい、漁村の人々と同じ国の人だとはちょっと思えません。つくづく格差の大きい社会だと気づかされます。

 もっとも、日本もそうなってきているというのは、最近あちこちで実感されること。これこそが、今の世界の現実なのでしょう。
 
 今回は、今までずっと一緒にやってきた漁師やNGOスタッフたちに、改めてインタビューをしてみました。今の研究のキーワードは「参加」なのですが、つくづくそれが一筋縄ではいかないということを実感しました。
 いずれ概要を公開していくつもりです。

 昨日は、日本大使館に行って書記官らに会い、プロジェクトについて相談。そのあとはソリダリダッドという知る人ぞ知る書店に行って、念願だった、オーナーで作家のシニョール・ホセ氏にお会いしました。
 初対面にも関わらず、とても気さくにいろいろな話をしてくださって、その暖かく優しい雰囲気は彼の書く小説そのまま。かれこれ20年近く前、草の根援助運動のツアーの途中で連れてきてもらって以来、一度お会いしたかっただけに、かなり緊張してしまいました。

 その後は今フィリピン大学に留学中のMTさんと会って、沿岸資源プロジェクトと開発教育についていろいろ話しました。MTさんは今度海外青年協力隊員として、フィリピンの漁村に派遣されるというので、僕の興味ど真ん中です。彼女が行くドマゲッティというところは、フィリピンの住民基盤沿岸資源プロジェクトの発祥の地ともいえるところで、彼女がいるうちに一度訪れたいと思っています。

 11時近く、オフィスに帰ると、1階のカフェのところで呼んでいるのが、PRRMの代表代行のガーニーセラノと、これも旧知のマーロン。わいわいと楽しく、飲めないビールまで飲んで、来年20年になる僕らの交流の話になり、来年の夏は、農村にあるガーニーの家に集まって、何もしないでただ色々話す3日間を過ごそう、という計画で盛り上がりました。

 明日には日本に帰ります。

2009年08月05日

アジ研図書館

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 学校は夏休みでも教員は普通勤務。

 そうはいっても、普段とは全然違って、やはりのんびりしています。
 休みたければ気楽に休めるし(もちろん年休ですが)お茶飲んでくつろいでいても今のところ事件もおきないし。

 で、就職希望者の面接練習も一段落したので、自分の研究資料を探しに、先週は国会図書館、今日は海浜幕張にあるアジア経済研究所の図書館に行きました。


  アジ研図書館はとてもいいところなのだけれど、とにかく僕のところからは遠い。半日休みを取って昼過ぎに学校を出たのだけれど、着いたのは三時近くでした。

  そこで受け付けでもらった番号プレートが、12番。
 まさか、今日12人目?!
  
 広いのだけれど四階まで吹き抜けの建物で、一目でどのくらい訪問者がいるか分かります。見える人影は数人・・・。
 なにしろ荷物を預けるロッカーが元々50しかないし、「30分以上占有は出来ません」というコピー機が2台しかない。多人数が来ることは想定していないのでしょう。ホントに12人目かもしれない。


 コンクリート打ちっぱなしの建物にアジアや開発関係の本がいっぱい。よく整理されているし、ソファも立派だし、検索システムもきちんとしているし、とても心地よい場所です。

 おもにフィリピンの漁業関係の資料をいくつも見つけてコピーしたり書き写したりしてきました。

   先週の国会図書館や自宅で検索かけて探した資料など、この一週間で30近く集めたことになるかな?
 ようやくやること見えてきたので、ちょっと興奮気味です。
 まあ、文献収集家というのは、研究途中でよく陥る罠だそうですが。集めただけじゃしょうがないよね・・・。

2009年07月22日

『ハリー・ポッター 死の秘宝』がない・・・

 突然ハリポタづいてしまった我が家。
 娘と観に行った『謎のプリンス(6作目)』と、テレビでやっていた『不死鳥の騎士団(5作目)』、それに『賢者の石(1作目)』を映画で観て、5と6を娘と競うように読みました。
 
 もうどれがどれだか分からなくなってきたけれど、僕は「一人で戦うこと」をかなりリアルに追体験して、苦しくなりました。

 周囲が「強いもの」に巻かれてゆき、自分の回りはみんな疲れ果てていく。日々の暮らしの中で、変節する人がいて、追従する人がいて、しかも権力が生活と職場に入り込んでくる。
 こんなとき、いつだって、かっこよくきちんとしているのはあっち側。こっち側は情けなく、くたびれている。

 たとえば戦争に進んでいく道筋が、こうだったろうと思うのです。

 「ハリーの魔法の世界、特にホグワーツ(Hogwarts)魔法学校というエリート校の設定は、小説中でマグル(Muggle)と呼ばれる非魔法使いに象徴された中流階級の勝利に対する抵抗を示している」

 と、ジャン=クロード・ミルネールというフランス人哲学者が書いているそうですが、そうであるとすれば、このホグワーツが侵入され、破壊されていく過程を描いた5巻・6巻こそは、その設定が壊されていく様子を描いていることになります。

http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2304490/2293992

 実際のところ、ホグワーツは決してしっかりしたエリート校としては描かれていないと思います。むしろ、欠陥だらけ、不安だらけの最後の拠点です。

 僕としては逆に、その欠陥だらけの場所で、絶対の存在に見えたダンブルドア校長すら絶対ではないことが分かってしまった、その不安な世界で一人戦っていくヒロイズムではない寂しい戦いが、転向せずに戦い続ける孤独な戦いを思って、暗く熱い気持ちになるのです。

 ハリー・ポッターの寄る辺のなさは尋常ではない。人はこんな中で、己を信じて戦い続けることはなかなかできるものではない。
 
 鶴見俊輔らが戦後問い続けた「転向」は、「生活」の中で起きていくものでした。

 ハリー・ポッターの戦う原動力は復讐と運命です。その単純さは児童文学の故だけれど、状況として起こっていくことと、それを描き続ける作者の精神力は決して侮れない力強いものだ、と僕は感じました。


 さて、その完結編である『死の秘宝』を読もう、と学校の図書館へ行ったら、この間はあったのに、貸し出し中。しょうがない、買おう、と近くの本屋に行ったら、ない。娘がきょう横浜駅周辺の3軒の本屋を回ってもなくて、アマゾンで買おうと探したら数週間待ち。

 あああ!これは困った!!!

2009年07月15日

『ハリー・ポッター』

 二週間前の「トランスフォーマー」に続いて、今度は『ハリー・ポッターと謎のプリンス』。
今日公開というので、娘は急いで予習、昨日から読み始めて、一日で読んでしまったそうな。

その娘と、もう一歳上の姪と、3人で観てきました。

 
暗いとは聞いていたけれど、それにしてもの圧迫感、閉塞感。あのホグワーツ魔法学校が!あのダンブルドア先生が!

 第1作目のころをとても懐かしく思える、のんびりした時代との決別。

 身近な、たいしたことがないと思っていたような友人や知人との対立がそのまま大きな争いになり、それが巨大な戦いになっていくというのは、ある意味ではとてもリアルな戦争への道筋を描いていたと思います。
 人は、生活の中で、こうして抑圧者に加担し、戦争の片棒を担ぐようになっていくのだ、という苦い感覚は、時として楽な方に流れていく自分の日常にも、ちょっと思いものを与えてくれます。

 真面目なハーマィオニーが、そのままに大きくなり、そして自分でも気づかないうちに成熟してきていたり、小さい妹だったジニーがいつの間にか一人前になりつつあったり・・・

 自分の子ども時代に重ねて考えることはさすがにないけれども、オトナになりつつある我が家の子どもたちにむしろ重ねて、懐かしいような胸の苦しささえ感じました。

 で、帰る途中、研修期間をほぼ終えた長男からは、大阪支社に配属が決まった、というちょっと慌てたメール。三鷹でガールフレンドと暮らし始めて三ヶ月、さてどうするか、これは困っているだろうな。
 
 でも、それも人生の、面白さですよね。


 それにしてもつくづく、ハリー・ポッターは日本のストーリーじゃないなあ、と思うことしきり。

1 悪いやつはやっぱり悪いやつ。
 日常の中で、それでも悪いやつ。話せば分かる的な共感性がどこかにあると感じられる日本的風土と比べると、理解できない人はいる、という徹底的な「他者」の感覚があります。
 異教徒や異文化にさらされてきたヨーロッパ的な感性なのだろうな。

2 選ばれたものへの特別視。
 ハリーに対する先生や周囲のえこひいきは、日本の感覚では許されない。階級社会イギリスならではじゃないかな。ノーブレス・オブリージュの孤独、人は生まれながらにして違うのだ、という確信が底にあるように思います。

3 よるべなさ。
 両親が殺されているというハリーは、その頼るべき場所や人も次々に奪われていきます。子ども向けファンタジーじゃないのだろうか?こんなに不安な場所に人は生きている、という感じは、生まれたときからの孤児である苦しさと矜恃とともにハリー・ポッターシリーズの基本だけれど、結構徹底しているように思える。

 あとは・・・また今度。
 
 それにしても、割と間抜けな「ライラの冒険」とか、結局牧歌的な「ナルニア国物語」と比べても、ダークで救いの少なさ、これはやはり、一流のファンタジーだなぁ。

2009年06月29日

トランスフォーマー:リベンジ

 高2の娘が「トランスフォーマー」にはまってしまいました。
 先日テレビで観て大興奮、あれこれ調べては語ります。

 日曜日は早速、二人で最新作「トランスフォーマー:リベンジ」を観に行きました。
 彼女がどこに、どうしてはまってしまったのか、実はよく分からないのだけれど、「はまってしまう」感じはよく分かる。きちんとできた世界観とか、作り込まれたシステムには独特の気持ちよさがあるものです。

 僕はかつて、スター・ウォーズにはまってしまった経験があります。初めて行ったアメリカで、当時日本にはまだなかったシネコンで観客の熱気を感じながら観た、その経験も大きいけれど、漠然と自分が夢見ていた映像が映画になっている、という感覚は、今でも「懐かしい未来」として思い出します。

 妻はそういうものへの理解はなくて、僕が組み立てて喜んでいたXウィングのプラモデルにも冷たい視線でしたが。

 
 さて、「トランスフォーマー:リベンジ」。
 1作目の3倍のトランスフォーマーたちが現れるのですが、意外なことに視点は、より主人公の成長と活躍の方に移っています。ティーンエイジャーの主人公サムを演じたシャイア・プルーフは、決してかっこいいわけではなく、でもなぜか観る者が共感を感じてしまう、たとえば吉岡秀隆のようなタイプの俳優で、1作目でも存在感は際だっていました。その彼が、コミカルな部分を存分に発揮しながらも最後はヒーローとなっていく少年→青年を、とてもいい感じで演じています。

 まあしかし、観ている人の多くは、とにかくハラハラドキドキのジェットコースター気分を楽しんでいるんだろうな。僕も十分楽しみましたが、娘は、「気づいたら口をポカンと開けていて、閉じてもいつの間にかまた口が開いてしまった」と表現していました。

 唯一許せないのは、アメリカ軍があまりにもかっこよく描かれていること。力ではエイリアンであるトランスフォーマーにはかなわないものの、そのシャープな動きや展開のタクティクスなどでしっかりと正義を守り、悪を倒そうとする。
 世界最強のアメリカ軍の軍人であることの誇りが、トランスフォーマーの変形のかっこよさと共に伝わってくるようになっていて、「ホントは軍隊なんてこんなもんじゃないぞー」と、喜んでいる人々に言ってやりたいような気にもなります。

 「ボルテスファイブ」が大好きなフィリピンの子どもたちも、観たら大喜びだろうなぁ。
 こんなフェイク・テクノロジーに踊らされるのは悲しい。・・・ともちょっと思うけれども、でもやっぱり精巧な機械のうれしさというのもよく分かる。

 帰りはハワイアンハンバーグを食べて、ちょっと買い物。幸せなデートでした。

2009年06月21日

若い女性になりたい


 組織は、その中にずっといる人だけでは活性化させれらません。外からの漂泊者が必要です。
 「若者」「馬鹿者」「よそ者」。
 よそから来た、若く、ときにばかばかしいことを言ったりしたりする人が、組織を活性化させていきます。 
 
 これについて鶴見和子は次のように書いています。

 「運動の主体は、地域の定住者および一時漂泊者であるが、外来の漂泊者との交流と共同なしには、伝統の再創造または創造は触発されない」(「鶴見和子曼荼羅IX」1999、藤原書店)。


 NGOがあるコミュニティで開発支援を行うときにこの役割を担うのが、コミュニティ・オーガナイザー(CO)です。コミュニティワーカーとか開発支援ワーカーなどとも呼ばれるCOは、開発支援の最前線。会社でいえば営業のようなもので、「南」のNGOでは、多くの若者はまずこれに従事します。

 
 僕が今まで会った中でもっとも優秀なCOは、マニラ湾プロジェクトで2001年から2003年まで働いてくれたビビアンでした。


 当時二十代半ばの彼女は海洋資源の専門家で、JICAでトレーニングを受けたこともあります。自ら潜って海の状況を調べ、しっかりしたレポートを元に計画を作ってくれました。

 しかし、彼女の優秀さはそこではなくて、人々の懐に飛び込んでいく人なつこさでした。


 漁師たちの家に行くと、さっさと入り込み、家族の一員であるかのように振る舞います。漁師たちが集まってラムを飲んでいると、当然のごとくその輪の中に入っておしゃべりをします。
 COというよりは、少々お行儀の悪い娘のような振る舞いなのですが、それが男性がほとんどの漁師の間ではもっとも受け入れられる態度なのです。

 うわさ話やら天気の話やらをしていたと思うと、いつの間にか漁獲の話になり、どう魚を守るかの話になり、最後は重要なミーティングの約束を取り付ける。
 COにも様々な個性があるのですが、彼女の飛び込み方はとても魅力的で、かつ自然でした。

 
 今なら僕は、結構いいCOになれると思います。
 知らない人に話しかけるのは、若い頃は苦手だったけれど、今はむしろ得意です。相手のガードを下げながら話をする方法や、さりげなく話をまとめる方法、わざと外して気楽さを演出する方法、歳とともに自然に身についてきたと思っています。
 僕自身、人と話をするのは大好きです。それも若い頃とはむしろ逆かもしれない。

 ただ、そうしたものが身についた今、足りないのが若さ。
 「若さ」に対する羨望は別にないし、若い頃よりは今の方がずっと居心地よく気楽なのだけれど、せっかく演じられるのにこれがないのは、とても残念です。


 ドリー・パートンという歌手がいます。金髪で胸が大きく、南部なまりのはすっぱなしゃべり方。一般には、バカな金髪女(damn blonde)というイメージです。
 しかし、現在63歳の彼女は、ヒット曲「ジョリーン」や、ホイットニー・ヒューストンが映画「ボディガード」の主題曲としてカバーした「オールウェイズ・ラブ・ユー」の作詞・作曲者という一面も持っています。
映画「9時から5時まで」や「マグノリアの花たち」では女優としてもヒットしました。
 彼女自身の言葉によれば、バカでセクシーで元気、というのは彼女が意識的に自分で演じてきた「マンガのキャラ」なのです(CBS 60 minutes 2009/4/5)。

http://www.cbsnews.com/video/watch/?id=4920629n&tag=contentMain;contentBody

 「9時から5時まで」で彼女が演じるセクレタリーは、奥に秘めた知性がちらりと感じられるかわいい女で、当時アメリカに住んでいた僕と妻の、地味だけれど大好きな映画になりました。

 しかし、63歳になった今、セクシーさはともかくとして、「バカ」さはやはりむずかしいと思わざるを得ません。前例にとらわれず、理屈を顧みず、外の人々にどうとられるかを気にせずに「バカ」ができるのは、やはり「若さ」の特権です。
 発言や態度には、自分の今の社会的な立場を考慮しないわけにはいかない。
 それが、歳をとるということでしょう。

好きだったドリー・パートンの今を見て、ちょっと悲しくなった瞬間でした。

 僕が、若い女性になりたい、と思うゆえんです。

2009年06月15日

JICA横浜で開発教育セミナー


JICA横浜で、開発教育セミナーの講師をやりました。
K-DECとして手伝っているもので、今回参加者は50人弱。横浜市大を中心とした大学生が20人弱、あとはほぼ小・中・高の教員でした。

1日のプログラムで、ワークショップを3つと講演。僕はその基調講演と1つのワークショップを担当しました。

ワークショップは、先週の月曜に草の根の学習会でやったのと同じDEARの『援助する前に考えよう』を元にしたものですが、今回はJICAの担当者に手伝ってもらい、オリジナルのタイからケニアに舞台を変更。
まずサファリツアーを堪能し、たどり着いた村で、考えるべきことが起きてくる・・・という設定にしました。担当者Kさんは、いろいろ写真を用意して、ツアーガイドの役柄。僕がそのツアーのリーダーという役柄になって、ちょっとした芝居をしながら進めます。

 学校の支援が問題になるのですが、一通り終わったところで、実際にはJICAはこんな支援をしました、とケニアの理数教師養成プログラムを紹介してもらいました。
 そのスケールのギャップや、にも関わらず根本的なスタンスは近いという部分とか、振り返りがとれなかったのは残念だったけれど、結構いいワークショップになったのではないかな。

 基調講演も、開発の概念から始めて、開発教育の理念、その目指すものなどを、適宜参加者の意見を聞きながら行って、僕としては割とよかったのではないかと思っています。

 楽しい1日でした。